キャノン機関
 戦後の国鉄三大ミステリーといわれる、昭和24年7〜8月に起きた下山事件、三鷹事件、松川事件は、今でも未解決のままです。下山事件は国鉄総裁下山定則氏が轢死体で発見された事件で、三鷹事件は無人列車の暴走で死傷者が多数出た事件、松川事件はレールが外されたために列車が転覆した事件です。松川事件と三鷹事件はどちらも共産党の犯行とされましたが、松川事件は死刑を含む判決が出たものの、検察の証拠隠しが発覚して全員が無罪となりました。三鷹事件は共産党員ではない男性が首謀者とされ死刑判決が確定し、男性は冤罪を訴えながら獄死しました。

 本書は、松川事件に関与したという中島辰次郎の人生や戦後日本で展開されたアメリカの情報機関の暗躍について書かれています。もともと、陸軍中野学校について取材している内に氏の存在を知った著者が、死後発表するという約束で聞き取りの模様を録音し、それを元に書き起こしたものです。

 中島氏は陸軍予科士官学校を志望して試験を受けたものの、身長が若干足りないために不合格となりました。憤激した彼は、身長はこれからでも伸びると書いた血書を予科学校の校長宛に送ったところ、満州にある諜報機関に行くことを勧められました。家族に相談したところ、明石元二郎の部下だったことがある父親は許可を与えました。こうして、彼はハルピン訓練所でスパイとなる訓練を受け、馬賊を相手にスパイ活動を行うことになったのです。中島氏は何度も危険な目に遭いながら情報収集活動を続けますが、やがて終戦を迎えてしまいます。

 ところが、戦後、こうした日本の情報機関の者たちは、次々と中国やアメリカに協力するようになっていきました。終戦時に中島氏が所属していた日野機関は集団自決を試みたものの、別れの宴の最中に大半の者が逃走したために、自決を断念しました。そして、生きていくためには戦勝国に雇われて培った諜報の能力を発揮するという、まったく矛盾する行動を取らざるを得なくなったのです。アメリカ側についた中島氏はアメリカ戦略情報局(OSS)の下で働くようになり、毛沢東暗殺計画を実行することになります。計画は進まず、やがて北京は共産党軍の手に落ち、そこへ侵入することはほとんど無理となりました。そこで、一端日本に戻れば、そこから北京に向かう望みがあると考え、船で帰国したところ、GHQ配下の対敵諜報機関(CIC)につかまります。数日後、彼は連れ出され、どういうわけか松川事件の現場へ連れて行かれ、そこで工作員がレールを外すのを見ているように命じられたのです。

 なぜ、部外者といってよい中島氏を現場へ連れて行き、見学をさせたのかは疑問です。しかし、これが真実であれば、米軍が国鉄三大ミステリーの犯人であったことになります。そして、著者は米軍がこうした工作を行った理由として、肥大しすぎた共産党勢力を抑えるためだったとしています。確かに、戦後、GHQは軍国主義を排除するために共産党を擁護しました。しかし、勢力を増しすぎた共産党をGHQは危険視するようになり、昭和22年の二・一ゼネストは命令を出して中止させています。これは、戦後共産党の大きな転機になったことでも知られます。共産党は戦後に盛り上がった国民的な支持を失い、暴力革命路線へ進むことになりました。その2年後に、共産党が犯人だとする破壊工作事件が連続することになったのです。もし、国鉄三大ミステリーを米軍が行ったものならば、その目的を十分にあげたことになります。また、日本の司法機関はそうした工作にしてやられたことになります。そして、こうした米軍の工作は未だに功を奏しており、日本政府が対米追従を続ける理由がそこにあることも分かるのです。

 戦争とはこんなものなのです。国のためなら死んでも構わないと考え、厳しい訓練にも耐え、命を賭けた任務をこなした人でも、食うためには敵国の配下にもなるのです。諜報技術は国のために習得したものでも、その技術は外国のためにも使えます。日本軍から給料をもらうことができないとなれば、それをくれる国のために働くしかないのです。米英などで、退役軍人が民間軍事会社に再就職するのも同じ理由です。日本も外地で散々情報活動を行いましたが、それは関係国いずれも同じようなものです。しかし、日本人として、日本国内で海外の情報機関が活動することに、日本人なら我慢ができないはずです。ところが、日本の指導者層は戦後、アメリカにやられっぱなしで、独立国らしい形に持っていこうという人がほとんどいませんでした。多くがアメリカに従うことで、何らかの利益を得ようとしてきたのです。それは今でも続いています。これを情けないことと考える人がいないのは本当に不思議です。とても、「侍の国」などとは言えないと思うのです。

 ただし、こうした本は手放しで受け入れられない事情もあります。「標的は11人」の記事でも書いたように、中島氏の証言について、証拠はほとんどないのです。著者が中島氏と共に松川事件の現場を訪れた時、中島氏は当時の現場付近の様子をかなり詳しく説明し、一部の矛盾を除けば、実際にその通りであったと書いています。また、中国大陸での諜報活動については、物的な証拠はほとんどありません。もちろん、中島氏の証言は頭の中で作れるような単純な話ではないことは間違いがありません。ただし、実際に中島氏が体験したことでも、都合が悪い部分は隠したり、嘘をつく、あるいは記憶が不正確と言うことは十分にあり得ます。こうした情報は慎重に判断する必要があります。こういう情報を単純に判断してはいけません。

 残念ながら、この本は古本でしか入手できませんし、この記事を書いている時点ではアマゾン・ドットコムでは入手できません。その穴埋めに、中島氏本人が書いた本も紹介しておきます。(2008.2.16)

Copyright 2006 Akishige TanCopyright 2006 Akishige Tanaka all rights reserved.aka all rights reserved.