この本はウィキリークスと提携関係にあるドイツのシューピーゲル誌の記者マルセル・ローゼンバッハとホルガー・シュタルクが、ウィキリークスの創始者ジュリアン・アサンジ氏について書いた本です。シュピーゲル誌とウィキリークスが提携関係にあるため、著者はアサンジ氏に直接インタビューを行うという幸運に恵まれました。内容も様々な資料を踏まえて、詳細かつ客観的なのが評価できます。
ハッカーだったアサンジ氏がインターネットを使えば、政府が独占する情報を一般に公開し、政治の暴走に待ったをかけられると考え、ウィキリークスを立ち上げる経緯が、本書にかなり詳しく書かれています。彼にとっては、マスコミは十分に機能しておらず、その上を行く組織が必要なのです。この既存メディアの問題について、本書はかなりのページを割いています。
そして、誰もが真相を知りたい、問題の強姦事件についても書かれています。私が読んだところでは、この強姦は成立しないか、成立が極めて難しいところです。アサンジ氏の支持者の女性が彼と合意の上でセックスをしたのに、彼がコンドームをしなかったとして、訴えに出たのです。類似した事件が2件連続しており、これは何者かの作為を疑わざるを得ません。
また、アサンジ氏は脇が甘すぎたとの批判を避けられません。どこに罠が潜んでいるか分からないことは、彼自身がよく知っているはずです。諜報やその他の世界でハニートラップが横行しているのは常識です。自分がやっていることを考えれば、フリーセックスなど諦めることです。アサンジ氏はジェームズ・ボンドではないのですから。
個人的な資質では、その独裁的な性格についてもかなり書かれています。重要な協力者であったダニエル・ドムシャイト・ベルグが離反したのは、そうした彼の性格に大きな理由があったと考えざるを得ません。ウィキリークスを離脱して、別の告発サイトを立ち上げたベルグは「ウィキリークスの内幕」という本を書いています。 しかし、そうした独善的な性格なしに、ウィキリークスは立ち上がらなかっただろうとも言えます。歴史上、時として異常な人物が偉大な成果をあげてきました。
この本はウィキリークスという組織の是非を考えさせます。アサンジ氏のそれはウィキリークスに関する議論の大半を占めます。民間人が国家機密を入手して、それを公表することが正当かという問題です。多くの国は、こうした行動を外国などの利益のために行えばスパイ罪を適用します。しかし、ウィキリークスはインターネットを使って、万人に公開しました。(正確には、利益を得るためにシュピーゲル誌などの一部メディアに独占的に先行公開しているのですが、時間を置いてウェブに同じ情報を公開しています)
もし、国家は国民のためにあり、それが必要を認めて秘密にしたことを公開するのは犯罪だとしか考えない者がいるなら、それは単純すぎます。情報を独占できる者は他者に対して多大に有利な立場に立てるのです。もし、政府が腐敗しているとか、適切に行動できないなら、情報の独占は最早、狂気に達します。
私が当サイトで外国メディアの報道を引用することが多いのは、国内メディアが海外の出来事を少ししか報じないからです。たとえば、現在進行中のリビア動乱の国内報道は実態よりも1日以上遅れています。その他の報道でも、海外で報じられてから2〜3日後に国内で報道される場合もあります。しかし、アサンジ氏はそういう海外メディアにすら不満を感じてウィキリークスを立ち上げたのです。確かに、海外のメディアを利用しても、私自身満足を覚えません。もっと詳細な報道ができないのかと感じることがよくあります。情報収集は常に国家機密の壁にぶつかって挫折するものなのです。
ウィキリークスは新しい政治形態をもたらす原動力になるのかも知れません。彼らはアナキストではなく、むしろ民主的な社会がより開かれたものになることを熱望しています。しかし、過大に評価されている可能性もあります。なにより、内部告発はウィキリークスに限ったわけではありません。2005年8月にハリケーン・カトリーナが米南東部を襲った時、ブッシュ大統領は連邦緊急事態管理庁から巨大なハリケーンだという報告はなかったと言いましたが、政府内部から大統領と緊急事態省のビデオ会議の映像が流出して、大統領の嘘がばれたことがあります。これは明らかに、関係者がビデオ映像を持ち出して、マスコミに渡したのです。
しかし、いまやウィキリークスに告発情報を手渡すことは、メディアの関心を容易に惹きつける材料になります。ウィキリークスはブランドであり、それ自体が権力を握ったのです。(2011.3.9)