これはダグラス・マッカーサーが日本にやって来てから天皇に面会するまでの経緯を通じて、日本の敗戦について描いた作品です。テーマは興味深いし、最近やかましい太平洋戦争肯定論などと同調した作品なのか、その逆なのかも含めて、私は関心がありました。
観賞してみると、内容は冷静な視点から終戦を描くものでした。事実に虚構を織り交ぜて、観賞しやすい内容にする手法も納得がいくものでした。こうした歴史ドラマでは、目に見えるものを正確に描写することが重要ですが、当時の風景、室内、衣装なども、念入りに作り込まれていて感心しました。
原作は岡本嗣郎氏の『陛下をお救いなさいまし 河合道とボナー・フェラーズ』で、フェラーズが日本文化を学ぶ上で影響を受けた日本人女性の河合が劇中では、恋人のミナの姿になって登場します。
まず、こういう作品が制作されたことを喜びたいと思います。アメリカ人は日本側の終戦について知らない人が多いと思われるので、ポピュラーな映画で描かれたことは幸いです。もちろん、歴史書として終戦を描いたものはありますが、そうした本を多くの人が読むわけではないので、映画化することで、大衆の目に触れることが多くなるという利点があります。
作品の優れた点を認めた上で、ここでは気になった点を書きます。ただ、私はまだ原作は読んでいませんので、原作との比較評論はここではしていません。
歴史的事実の表現で気になったことが冒頭にありました。広島に原子爆弾が投下されて終戦が決まったように描かれていますが、これは史実とやや違いますし、長崎が省略されている点も気になります。
原爆投下は終戦に大きな影響を与えず、日本政府はソ連の参戦をより強く恐れたというのが、現在の歴史家の一般的見解です。終戦への方針は、すでに天皇から出されており、日本政府はその方向で動いていました。いまでも多くのアメリカ人が原爆で終戦が決まったと信じており、私も最近、米軍人がそういう意見をインターネットの掲示板に書いているのを見ました。彼は、日本人は武士宇堂の掟に従って降伏しようとしなかったのだから、原爆投下はやむを得なかったのだと言うのですが、これがアメリカ人に見られる典型的な誤解です。日本人としては、この点を繰り返し主張していく必要があります。
さらに、原子爆弾と主要都市への爆撃には大きな関係がある点も含めて欲しいところです。原爆以上に、通常爆弾による大規模爆撃は日本全土を荒廃させていました。都市爆撃は、スチムソン陸軍長官が非公式に懸念を表明したほどのレベルになっていました。都市爆撃は軍民分離の原則を無視した、非人道的な戦略でした。この点は、アヤを通じて描かれているとは言えるのですが、さらに内容を盛り込むことができたはずです。
人物関係の構図は単純すぎ、それが作品の弱さとなっています。フェラーズ准将に対するプレッシャーがリクター少将だけでは単純すぎます。たとえば、フェラーズの部下の中にも疑問を呈する者を置くとか、フェラーズの葛藤をさらに強調する方法が考えられます。かわりに見られるのは、フェラーズが酒で緊張を和らげる場面だけですが、これでは印象は弱くなります。
天皇が絶対的な権限を持ちながらも、儀礼的な役割を負わされ、権限を行使することがほとんどなかったことは事実で、天皇自身の言葉によれば、側近の意見に反対したのは226事件と終戦の時の2回だけでした。こうしたことも、登場人物がフェラーズに説明するよりは、ストーリー全体で表現できなかったかと感じます。「本音」と「建前」とか「日本人の心」についても同様で、鹿島大将が説明するよりも、フェラーズが様々な体験を通じて理解する形にできなかったかと思います。
たとえば、アヤとフェラーズの恋愛を順調な形で描くのではなく、お互いが違いを乗り越えながら理解していく筋書きにして、それを日米の相互理解と対比する方法が考えられます。アヤは詳細な説明は鹿島大将に任せ、ストーリーから姿を消すので、重要な役の印象が薄くなっている点が気になるのです。
太平洋戦争で軍人が暴走したのは確かですが、これは現代人から見ればの話です。軍人だけが軍国主義者なのではなく、これは日本全体に蔓延していた自然発生的な動きでした。不況や大震災、情報不足により、日本人は外国に対する敵対心を持っていました。日本政府が日米交渉で妥協し、満州帝国を手放そうとすれば、国内でどんな動乱が起きたかも分かりません。そういう時代だったのです。戦争を回避するという発想自体が、普通の日本人には考え及ばない時代だったのです。その不可避的な構造が、一部の狂信的な軍人だけの責任になっているのは、現代人の視点です。日中戦争から太平洋戦争が日本人全体の罪である点は否定しようがなく、そういう表現があれば、さらによい作品になったろうと思うのです。(2013.8.5)
ボナー・フェラーズの公式サイト