この本は、陸上自衛隊で教えている「徒手格闘」について解説した本です。
徒手格闘はもっぱら素手による格闘術ですが、銃剣やナイフなどの刃物を使った格闘も含みます。こうした肉体を使った戦闘は日本語では「白兵戦」と呼んでいます。元は刃物による戦いのことを呼んだようで、白兵戦という言葉もそこから来ています。「白兵」は抜き身の刀を意味する言葉で、槍や剣までも含みます。中世の刀と鎧の戦いを連想すれば、この言葉の意味が理解できます。要するに、刃物で戦い、それが使えなくなると組み討ちで勝負を決める戦いが白兵戦です。しかし、銃砲が発達するにつれて白兵戦の重要性は薄れてきました。敵に露出した状態で接近することが減ったのです。兵を殺すのはもっぱら砲兵や空爆で、歩兵は敵を食い止めることで十分に役目を果たすようになりました。さらに、装甲部隊と航空部隊の立体作戦が主流となると、いよいよそのチャンスは減りました。特殊部隊でも、格闘術が実戦で使われる可能性は高くありません。彼らは隠密行動が多いので、人目に付く白兵戦は避けようとするためです。しかし、最も敵に近づく彼らは、徒手格闘を十分に訓練しておく必要があります。
ちなみに、白兵戦の英語での呼び名は数種類あります。よく知られているところでは「close combat」で、似た言葉に「close-quarter combat」という書き方もあります。他に「hand-to-hand combat」という書き方もあり、これらの末尾の単語には、「fighting」「fight」「battle」などのバリエーションがあります。意外と知られていないのが「combative」で、私は初めてこの単語を米軍のフィールドマニュアル(FM 21-150)の中に見つけた時、意味が分からずに目を白黒させたものでした。単独で用いるほか、敵との距離に応じて「close-range combatives」のように書きます。
軍隊で教えている格闘術は大体どこの国も同じですが、やはりお家芸のような細かい差があるようです。下に引用した図は、FM 21-150に記載されている「over-the-shoulder throw」です。英語名からして、これは背負い投げの説明です。この図と「自衛隊徒手格闘入門」に書いてある背負い投げの写真はほとんど同じです。この本によれば、自衛隊の格闘術はさまざまな格闘技の技を取り入れて作られていると書かれており、また、米軍の格闘術も同様だと書かれています。
スポーツの格闘技と違い、軍隊の格闘術は技が少ないことが特徴です。これは、技を増やすとそれだけ訓練時間が増えるのを防ぐほか、実戦を想定しているためです。スポーツ格闘技は長時間戦って技術を競いますが、軍隊の格闘術は早く決着をつける必要があります。そうしないと敵に発見されたり、加勢にやってきたりと、危険が余計に増えてしまいます。米海兵隊の訓練では、相手が首を絞めてきたら、まず両手で相手の片方の肘関節を攻撃して腕を外し、その腕をつかんで地面に倒し、次に頭部を踏みつけて止めを刺します。これを、1・2・3でやれるように反復練習するようです。立ったままで戦い続けるのではなく、敵をひっくり返して止めを刺す技が多いのが特徴といえるかもしれません。現在の柔道の多くの技が、体をひっくり返したところで決まったと認定されるのは、この原則に由来するのではないでしょうか。
この本で興味深いのは、護身のための格闘術を否定していることです。それよりは危険を早く察知して逃げることを優先すべきだ、と説いています。これは「素人には無理」という意味ではなく、格闘の達人でも咄嗟の攻撃には対処するのはむずかしいのが実情だということです。この本は、軍隊式の格闘術を憶えて護身術に使おうという主旨では書かれていません。むしろ、格闘術を使わずに済ませる方法を説き、末章で詳しく説明しています。この発想は、むしろ軍事的な発想から来ているのかも知れません。戦争では(平時でもですが)、軍隊は敵に余計な出血を強き、味方の流血をできる限り防ごうとするものです。そのために、実力を行使することもあれば、情報戦だけで同じ効果を上げようとすることもあります。日常生活に応用すると、このような形になるのでしょう。(2006.12.25)