「孫子(そんし)」は中国古代の戦略書で、世界三大兵書のひとつとされています。その「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」という言葉は、軍事に関心がない人でも知っているほど有名です。
しかし、孫子を勉強しようとすると、ある障害にぶつかります。それは、書かれた時代が中国の春秋時代で、日本でいえば弥生時代の最中と古く、原本が書き写される過程で内容が変化し、その内容を特定できないことです。もっとも古い信頼できるテキストは宗時代に編纂された「十家孫子会注」でした。このため、著者の孫武(そんぶ)の存在すら疑わしいとされ、孫武の子孫である孫ぴんが著者と考えられたこともありました。1972年、中国山東省の墓でさらに古い書「竹簡孫子」と孫ぴんが書いた別の書が発見されました。これによって、孫武が孫子の著者であることが確認され、前漢時代までは原典を遡ることができるようになりました。もっとも、「竹簡孫子」も孫武の完全なオリジナルではなく、後人によって加筆されているとみられている上、欠落部分も多いという問題があります。原本の内容が正確に把握できないことは、その研究にとって障害であることは言うまでもありません。
このため、日本の孫子の解説書の底本は「十家孫子会注」が中心で、「竹簡孫子」を底本とした本は出版されませんでした。本書は、浅野裕一氏による日本で最初の「竹簡孫子」による孫子の解説書です。古典の研究には、できる限り古い書を底本とするのが有効なのは当然で、本書はその意味で重要です。
孫子研究の難しさは、漢文の解釈が研究者によって違うことにもあります。また、孫子の内容も随所に重複や矛盾があり、理解が難しい部分が少なくありません。古代中国の戦争の手法を理解する必要があるという難しさもあります。研究者によっては、漢文には詳しくても軍事は疎く、理解しがたい解釈を主張する人もいます。それでも、クラウゼヴィッツの「戦争論」よりは読みやすいでしょう。理解しやすさでは、リデル・ハート卿の「戦略論」に次ぐと言えるでしょう。浅野氏の解説には他の兵法書との比較も含まれており、推奨できます。
孫子の兵法の骨子は、計略と諜報によって戦争をできるだけ避け、戦う時はあらゆる方法で敵の弱点を作り出すことにあります。さらにまとめるなら、「損害回避の極限点を目指せ」ということだと言えます。残念なことに、当時の文章の特質なのか、孫子にはコンセプトが記されているだけで、具体的な解説はほとんど書かれていません。このため、具体的にどうするかは読み手の理解に任されます。そのため、解釈の仕方で問題を生む場合もあります。孫子は会社経営の手引きとしても使われています。「損害回避の極限点を目指せ」を字義通りに実践すれば、最近、多発しているような、コスト削減のために食品の品質を落とす食品偽造事件を招くでしょう。食品会社はあくまで品質維持とコスト追求を両立させなければ、社会的な制裁を受ける羽目になるのです。孫子は群雄割拠した春秋時代の国家経営を論じた書です。この時代に戦争を規制する法律はほとんどなく、自国以外は敵という社会環境がありました。ビジネスに孫子を応用する時は、当時と現在の違い、戦争とビジネスの違いをよく考える必要があります。
なお、古代中国の戦争については、学研の「戦略戦術兵器事典1 中国古代編」という手軽なガイドブックがあります。(2007.11.1)