父親たちの星条旗

硫黄島からの手紙

 映画史上、太平洋戦争の映画は失敗するというのが通り相場でした。ジョン・ウェインの「硫黄島の砂」「レッドビーチ戦記」など、さまざまな作品がありますが、どれも高い評価を受けたとは言えません。「史上最大の作戦」で成功したザナックは、次いで同じコンセプトの太平洋版として「トラ・トラ・トラ」を制作しました。しかし、これも評判は芳しくありませんでした。最近では、同じ真珠湾攻撃をテーマとした「パールハーバー」が制作されましたが、制作自体が困難を極め、仕上がりもよくありませんでした。とにかく、太平洋戦記ものでヒットを飛ばすのはむずかしいというのが映画史が残した教訓です。それに比べると、硫黄島の二部作はゴールデングローブ賞やアカデミー賞を受賞し、十分な成果をあげられたといえます。

 しかし、日本ではこの二作品に対して奇妙な批判がみられました。それは「父親たちの星条旗」にみられるような忠実な歴史の再現が「硫黄島からの手紙」にみられないという批判です。これは完全に誤った批判です。

 なぜなら、「父親たちの星条旗」も原作と比較すればかなりの脚色があって、史実と違っているからです。ブラッドレー衛生兵は死ぬまで行方不明になったイッギーを忘れられずにいたのではないことは、原作にはっきりと書いてあります。財務省の役人ガーバーは完全に創作された人物です。出来事が起きた順番も部分的に史実と異なりますし、明らかに違うという場面がいくつもあります。

 「硫黄島からの手紙」で批判しやすいのは、実際には堀尾少佐が述べた意見「もっともよい作戦は硫黄島を海中に沈めることです」を西中佐が述べたように描いたことなど、史実として残っている事柄が変更されている点です。栗林中将と対立する将官は実名の人もいれば、仮名の人もおり、彼らの行動も史実とは異なっています。栗林中将の最期を記憶している生存者がいなかったことも周知の事実ですが、作品では彼の死が具体的に描かれます。そのほか、この作品には数多くの脚色がみられます。

 さまざまに出された批判は、生存者の意見を正確に伝えてほしいという気持ちや、歴史に対するマニアックな視点から出ているようです。でも、こうした批判は最近の劇映画の流れに無頓着だといわざるをえません。史実を忠実に描くだけの歴史映画はすでに過去のものとなったのです。なぜなら、そうした映像作品ならドキュメンタリー映画の方がはるかに適しており、劇映画には別の役割があることに映画制作者たちは気がついているからです。この点、日本の映画界は相変わらず歴史を時間軸に沿って描くスタイルに固執し、退屈な作品を制作し続けています。

 最新の劇映画は歴史的出来事のダイナミズムを観客に提供することを主眼にしています。そうしたテーマを強調するためには、史実を変える場合があることを承知して鑑賞した方がより深い理解が得られるものです。逆説的な感じはしますが、これが現代の映画制作者たちが行き着いた結論なのです。別の監督が硫黄島の映画を撮って、まったく違ったものになったとしても、劇映画として斬新なものならそれもまた評価されるべきなのです。栗林中将の死をもって硫黄島の戦闘は終わったようにみなされていますが、実際にはその後に生存者たちの死に物狂いの毎日がありました。そこまで描く作品があっても、まったくおかしくないわけです。そうした作品がないので仮定の話にしかなりませんが、イーストウッド作品とそうした作品のどちらが正しいといった全か無かといった評価基準は劇映画の評価方法としてふさわしくないといえます。

 残念なことに「硫黄島からの手紙」には、細かい部分で史実考証の誤りと思われる描写がいくつかあります。中には非常に残念なミスもあります。しかし、これらは作品全体の価値を損なうものではありません。考証の誤りは事実上、不可避でもあります。

 私はこの二作品を強く支持します。われわれが注目すべき戦争の矛盾を重要な要素として取り上げており、これまで無視されがちだった硫黄島の戦闘を描いたことは収穫です。このほかにも南太平洋の島々で日本とアメリカは死闘を繰り広げました。それらはこれまで数作品で取り上げられただけで、ヨーロッパ戦線を描いた作品に比べるとあまりにも少数です。今後、そうした作品が制作される基盤を作ったことも評価したいのです。そうした作品が増えることで、日米の相互理解がより深まると期待できるからです。(2007.5.13)

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