ニューズウィーク誌8月30日号の「This Week」で、ジェームズ・ワグナー編集長が、吉進丸事件における日本の対応を批判しました。あまりないことですが、私は今回ばかりはワグナー氏と意見が一致しました。ただ、ワグナー氏は北朝鮮のミサイル発射を引き合いに出しましたが、私はむしろ中国軍機が米軍機に接触して墜落した時に、中国政府がアメリカに謝罪を求めたのに似ていると思います。戦闘が目的の戦闘機が、公海上で米軍機に接近しすぎ、接触したのを、中国政府は領空内での事件とみなしました。中国政府の主張によると、そこは中国の領空内だというわけです。しかし、国際的にこの中国政府の主張は認められていません。米軍機が公海上空を飛んでいたことは否定しようがありませんが、中国は強硬に謝罪を要求しました。端から見て、それはひどくみっともないものでした。また、ミグ25が函館空港に着陸した時、ソ連大使が外務省で高圧的な外交を展開したことを思い出させます。ソ連大使の態度に起こった外務省は、ミグ25とパイロットをアメリカに渡して報復しました。ロシアの報道では、坂下船長は禁固刑の可能性もあるということです。
ロシアが日本政府の言い分を聞き入れないのは当然です。一歩でも退けば密漁が横行し、取り締まろうとすれば日本漁船は逃走し、停戦させるために発砲するたびに日本から批判される構造を作り上げることになるからです。この悪循環を断つためには、最初から日本の要求を突っぱねるしかありません。日本がここであまり突っ込むと、日ロ間の漁業交渉にも悪影響が出るでしょう。ロシアは部分的には北方領土周辺での操業を認めており、日本漁船を完全にシャットアウトしているわけではありません。
今日になって、新事実が判明しました。NHKによると、事件当時、坂下船長は無線を切っていました。ロシア語が分からないので、ここ数年間、無線は常に切っていたといいます。おそらく、坂下船長は第三級海上特殊無線技士の資格を持っていたと考えられるのですが、これは電波法第65条に違反する恐れがあります。船舶局は、総務省令で定める期間中、電波法が定めた周波数と総務省令で定める周波数を、聴取しなければならないと定めています。要するに、船舶で無線を使用する者は、緊急連絡用の周波数は常時聴取する義務があるのです。「聞いていませんでした」では済まないのです。事件の原因の一つは、ここにあります。ロシア警備隊は当然、吉進丸は無線を聞いていると思っていたはずですから、停船命令を無視して逃走したと判断したのです。少なくとも、ゴムボートを目視した時点で無線機のスイッチを入れて、確認するべきでした。坂下船長の危機管理意識の低さが乗組員の死につながったのです。
銃撃の正当性を判断するには、まだ情報が足りません。しかし、中間ラインが近いことから、長く追跡すれば日本側に逃げ込まれるという意識がロシア側にあるのは当然で、無理にでも停船させようとすることは無理なく理解できます。ロシア側からすれば、信号弾も撃ったのだから、吉進丸は確信的に逃げるつもりだとしか見えません。そこで、どこを撃とうかということになりますが、舵を狙っても吉進丸のように小さな船の場合、移動中であることもあり、必ずしも舵だけに命中する状況ではありません。しかし、これはロシア側としては想定外の事態で、本来は銃撃なしで拿捕したかったのだと思われます。ロシア警備当局は、日本の反発を恐れて、事実関係をぼかして発表したため、真相が見えなくなってしまったのかも知れません。思えば、これは日本がこの事件でロシアをやりこめられる唯一のポイントでした。日本はそのチャンスを自分で無にしたのです。
今回のことで、ロシア側は北海道周辺での漁業の取り締まりを厳しくしたり、ロシア領海内での許可操業で締め付けを仕掛けてくるはずです。漁業取り締まりに関する協議の席でも議題とされ、日本側は苦しい立場に置かれます。日本の外交は「相手がどう考えるか」をまったく考慮しないで、自身の主張だけを繰り返す外交になってしまいました。それは、近年、保守的な世論が著しくなり、それに政治が迎合することが多くなったのが原因です。その理由としては、左翼勢力が自らの欠点のお陰で力を落とし、国民からの反発を買ったことがあげられます。特に、拉致問題で旧社会党は最後まで北朝鮮をかばい通しました。徐々に力を落としていた勢力は、拉致問題で国民から決定的に見放されたのです。左翼を支持しなくなった人たちが、急速に与党を支持するようになったことが、小泉人気に拍車をかけました。そうした人たちの多くは「自民党はベストの選択ではない。しかし、野党よりはマシ」と考えています。その自民党が、共産主義国を思わせるような外交を展開しているのは皮肉です。これは日本国民にそのような性質が内在していることを暗示しています。
当初、吉進丸事件は取りあげるつもりはありませんでしたが、次第に、最近の日本外交の傾向を考える上で、重要な事件だと考えるようになりました。この事件の動きを理解していれば、今後の日本外交も理解しやすくなるのです。