読売新聞によれば、政府は国連平和維持活動(PKO)協力法に基いて海外で活動する自衛隊員の武器使用を、自らの身に危険がない場合でも、任務遂行への妨害を排除する場合は使用を容認する方向で検討を始めたということです。これは停戦監視などの国連平和維持隊(PKF)の本体業務に参加するためで、犯罪集団など国の正規軍でないことが明確なケースに限定し、国連施設を守ったり、逮捕者の逃亡を防いだりする時、相手から撃たれなくても先に武器を使うことを可能にします。政府は年内に解釈変更を表明し、PKO協力法など関連法の改正作業を始めたいとしています。
この話を聞いてすぐに連想したのは、アメリカが国連軍として戦争をする時、自衛隊が捕虜収容所の運営を任されるなど、下請けをやらされることです。現在も、イラクでは需要の少ない空輸任務を航空自衛隊が国のプレゼンスを示すだけに行っています。まったく意気がくじける話ですが、日本政府がこうしたアメリカの要請を拒む理由はありません。財界や政界では、アメリカ信仰が根強く、アメリカから支持される政権は高く評価されるという慣習が占領時代以来続いているからです。こうした屈辱に妥協する過去の世代に対する反発は避けられず、これからの世代はこの慣習を打ち破る方向へと進むはずです。しかし、こうした法改正は今後進み、自衛隊が国際貢献と称してアメリカのために活動する機会は増えていく危険があります。
現行憲法の下では、いくら法律を改正しても完全にPKFに参加することはできないでしょう。今回の動きでも、他国に対する攻撃は対象にされていません。PKFに完全に参加するには、こうした制約が障害となるからです。当然、次の段階として、この制限を撤廃したいという政治的動きが起こると考えなければなりません。
法律では政府が行う戦争を縛り切れない部分があります。司法の常識として、高度に政治的な問題について裁判所は司法判断を下さない、とされているからです。戦争への参加という、国民にとって極めて重要度が高い問題は、すべて政治家の判断によって行われます。自衛隊を法律上完全な軍隊にしても、政治がしっかりしていれば戦争による災厄の危険性は極めて小さいでしょう。アメリカのように、高度な軍事研究が行われている国でも、指導者の選び方を間違えると大変な失敗をします。軍隊を持つ国でも、軍事的な判断を誤らず、本当の意味での国際貢献を行っている国もあります。そうした国はPKF活動で犠牲者も出しています。
日本の問題は、こうした政治面での議論なしに制度の改正だけを進めようとするところにあります。政界だけでなく、メディアもそうした議論が苦手です。国民も平和を考えるためには、軍事分析が必要だとは思っていません。メディア上で聞かれる軍事分野の議論はほとんどが倫理的な議論に置き換えられています。このため、危険な軍事活動に危険と思わずに参加して犠牲を出す恐れが多分にあると、私は考えます。この分野には簡単な答えが見出せません。そこに問題があります。