原潜「ネルパ」死亡事故に残る謎

2008.11.11



 アクラ級2型原潜ネルパの事故原因が、フロンガスによる中毒死という情報は、アムール造船所の責任者だけでなく、最高検察庁当局者の発表でもあったようです。

 ロシア海軍はいずれ詳細を公表するでしょうが、軍はこういう場合、急に慎重になり、発表までに時間をかける場合が多いので、気長に待つ必要があります。また、ロシア検察庁が言う「フロン」は、おそらくは「ハロン」を指していると推定できます。ハロンはフロンに臭素を加えた化合物ですが、「フロン」と記述されることもあり、これには地域差があります。

 本当にフロンガスが事故の原因である可能性も否定はできませんが、まだ疑問がいくつか残ります。

 消火装置が誤動作したことは、システムのエラーを連想させますが、誰かが装置を作動させた可能性もあります。テスト航海の中で、消火装置のテスト中に誤動作させた可能性も考えておいてよいと思います。

 死傷者が合計で40人以上ということは、二つのことを連想させます。ひとつは、広範囲で一斉に消火装置が作動したことです。これはシステムの欠陥を思わせます。普通は魚雷室など、区画ごとに消火装置が作動すると考えられ、一区画に40人もの乗組員が終結するとは考えにくいものがあります。

 もう一つは、艦首付近に設置される寝室区画で事故が起きた可能性です。ここには三交代で勤務する乗組員が、整然と並んだベッドで休息を取っています。犠牲者の3人が軍人、17人が民間人だったことは、乗組員208人中81人が軍人ではなかったことを考えれば、不思議ではありません。ロシア海軍の潜水艦が、どんな消火設備を設けているのかは分かりませんが、ガスを用いた消火施設は、作動ボタンを押してから、実際にガスが噴射されるまでに一定の時間を置き、警告を音声などで発して、周囲の人が逃げられるようになっているものです。乗組員が危険から逃げられなかったのは、こうした警告が何らかの理由で行われず、乗員が寝ている最中にガスが充満した可能性は否定できません。

 しかし、これには疑問もあります。二酸化炭素型の消火装置の事故では、数回の呼吸で死亡するのに比べ、毒性を持つ一部のフロンは短時間なら吸引しても死ぬことはありません。二酸化炭素はそれ自体が中毒を引き起こしますが、これは酸素欠乏とは別物です。二酸化炭素の消炎濃度は22%、消炎時の酸素濃度は16.4%です。消火濃度は、そのガスで炎を消すのに必要な濃度で、数値が低いほど能力が高いことを示します。酸素が十分にあっても死に至るのは、二酸化炭素中毒によるものです。

 消防庁消防研究センターの情報を見ると、最もよく使われていた消火剤ハロン1301は、消炎濃度が3.4%、無毒性濃度が5.4%です。無毒性濃度は毒性がないことが明らかな濃度であり、これは高い方が能力が高いことを示します。また、酸素濃度は12〜13%程度で、これは低酸素状態ではあるものの、短時間の活動に支障はないレベルです。

 ただし、ハロンの中には、高熱に曝されると、塩素、フッ化水素、塩化水素などの毒性を持つ物質を発生し、水や酸素によってホスゲンを発生するものがあります。いずれも中毒を引き起こす物質です。このため、ハロン1301以外の消火器は地階など、窓のない場所での使用は禁止されています。最新の潜水艦の消火設備がどうなっているかまでは、部外者には分かりません。だから、ロシアがこれらの毒物を発生するタイプのハロンを使っていたのなら、これが事故の原因かも知れません。つまり、ハロンが原因なのではなく、ハロンが発生させた毒物が原因ということになります。しかし、今回の事故では火災は発生していないので熱源はなく、現場に水や酸素が大量に存在したという証拠は、今のところありません。

 以上は、報道に基づいた推測です。現場で起きたことが、もっとある場合、この推測は誤っているかも知れません。システムの崩壊は往々にして想像もできないことが原因で起こります。結論を出すには、ロシア海軍の報告を待つしかなさそうです。しかし、彼らが疑問に十分に答えてくれるのか、期待はできません。

 ネルパは1991年に建造が始まりましたが、ハロンは1994年に世界的に生産が禁止されました。ハロンの使用は抑制に留まり、禁止されなかったため、ネルパに採用したことは批判できないかも知れません。それでも、この事故の影響は甚大で、ロシアの潜水艦の評判は地に落ちたといえます。

 なお、各紙は専門家の共通したコメントを紹介しています。space-war.comは、元ロシア海軍の高位の艦長で、海軍のテクノロジーの専門家ゲナディ・イラリョノフ(Gennady Illaryonov)の、乗船していた民間人全員がガスマスクを持たず、必要な訓練もしていなかったことが悲劇を拡大した、という意見を掲載しました。このガスマスクは呼吸を20分間続けることを可能にします。また、現在、ロシアの原潜は極度に自動化され、人員は70人程度しか配備されません。これはアメリカの原潜と比較すると約半分の人数です。技能を持つ乗員と経験が欠如していると、イラリョノフは語りました。military.comは、同じくロシア海軍の退役艦長アレキサンダー・ポクロフスキー(Alexander Pokrovsky)の、民間人と軍人が事故が起きた時にいたことが、事件の要因だろうという意見を載せています。造船所の職員と技術者はガスマスクの使い方をよく知らないと、ポクロフスキーは主張します。


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