「明日への遺言」の問題点

2009.8.13



 終戦記念日関連のテレビ番組が連日放送されています。皆様には、こうした番組をできるだけ多く視聴して頂いて、戦争に関する知識を深めて欲しいと思います。こうした番組の中で、日本映画専門チャンネルで放映された中に、映画「明日への遺言」(小泉堯史監督)があります。この作品について、問題点を指摘しておきます。

 この作品は、大岡昇平の「ながい旅」を原作として、B-29搭乗員を戦争犯罪人として処刑したことで、連合軍から戦争犯罪人に指定された東海軍司令官・岡田資(たすく)中将の裁判を描いています。岡田中将がB-29搭乗員を戦犯と判断したのは、彼らが民間人を標的とした無差別爆撃を行ったためでした。しかし、捜査だけで裁判を行わなかった点が問題とされたのです。

 残念なことに、「明日への遺言」は戦争の歴史を正しく認識した上で制作されていません。そのために、多くの人にとって参考にならない作品となっています。


都市爆撃

 民間人が多く居住する大都市を狙った爆撃作戦を「都市爆撃」と呼びます。太平洋戦争時、日本はこれを「無差別爆撃」と呼び、米軍は「地域爆撃」と呼んでいました。本来、爆撃は「軍事目標主義」といい、軍事施設を狙って行う場合にだけ合法であり、住宅地など民間人の生活圏を攻撃するのは違法であるというのが、ヘーグ条約など戦争に関係する国際法の常識です。一方、軍事技術的な見地からは、都市爆撃は戦争を短期間で終わらせるのに有効です。核戦争は都市爆撃の究極的な形です。核兵器のように威力が強大な兵器は、軍事施設のみを狙って攻撃することがほとんど不可能であり、最初から都市爆撃を狙って開発されたものです。広島市と長崎市への原爆投下がそれを物語っています。しかし、都市爆撃を行った者は戦犯であり、裁判なしに処罰してよいということはできないのです。

 名古屋空襲は複数回行われましたが、1945年5月14日の焼夷弾による爆撃は最大の被害を日本にもたらしました。これが民間人が居住する地域に対する無差別爆撃であり、軍事目標だけへの攻撃を合法とするヘーグ条約に抵触すると岡田中将は考えました。これは間違いのない主張であり、そもそも日本の空爆を計画した米陸軍航空隊のカーチス・ルメイ少将自身が、戦争犯罪であることを自覚していたと、当時、彼の部下だったロバート・マクナマラ(ベトナム戦争時の国防長官)が認めています。マクナマラ本人も、東京大空襲はやりすぎだと考えていました。

 こうした無差別爆撃が行われたのは、当時のテクノロジーに理由があります。対空砲火を避けて高々度から爆弾を落とすと弾着が散開し、十分な効果が得られません。この場合、照準を正確にするために昼間に爆撃を行うのですが、爆撃の有効性は5%に過ぎませんでした。百発の爆弾を投下して、目標に命中するのは5発だけなのです。そこで、爆発する爆弾ではなく、炎を発する焼夷弾(現代の白リン弾)を使うことにすれば、火災によって都市を破壊し、生産力を奪うことができると考え、これをドイツのハンブルグ空襲で用い、有効性を実証しました。さらに、高度を低くすることで爆弾の散開を防ぎ、爆撃機が対空砲による攻撃を受けにくくするために夜間に爆撃を行いました。劇中では、B-29が消火を妨害するように爆撃したという岡田中将の見解が示されますが、当時にそのような技術的な爆撃が可能だったとは考えにくいのです。仮にそうした状況が観察されたとしても、意図的に行われたとは信じられません。

 都市に対する爆撃は、陸軍部隊の損耗を防ぐために発展してきました。最初から兵士同士が戦えば、大きな損害を出します。人類が大砲を発明すると、まず大砲が撃ち合い、その後に兵士が戦闘を行う戦術が生まれました。航空機が発達すると、まず航空機が敵地を攻撃し、敵の戦力を減少させてから兵士が戦うように戦術が変化します。このため、米軍が日本に侵攻する前に、大規模な爆撃が計画されたのです。これが都市爆撃です。さらに、これが発展して原爆投下へとつながります。こうした都市爆撃に問題があるのは言うまでもありません。現代でも、米軍はイラクやアフガニスタンを空爆しています。精密爆撃を行っても、なお民間人の死傷者が出ています。空爆に関する国際法は有名無実の一面はあり、いまなお改善されるべき問題であり続けています。しかし、劇中にナレーションで、次のような見解が示されます。

さんざん爆弾で人を殺しておいて、自分はパラシュートで降りてきて助かろうというのは虫がよすぎる。これが当時の市民のいつわらざる感情であって、それはまた搭乗員を斬首した日本軍兵士のものでもあった。

 この見解は歴史に逆行するものであり、戦争を考える上で用いるのはむしろ有害であるということを理解する必要があります。以下に、その理由を述べます。


軍律裁判

 当時、日本軍は爆撃機の搭乗員を正規の軍事裁判(日本軍の用語では軍法会議)ではなく、軍律裁判(同じく軍律会議)で搭乗員を死罰に処しました。軍律裁判とは、軍隊が作戦を行う地域で、主に軍人以外の者を対象とした一種の行政罰であり、軍事裁判とは違って司法機関ではありません。行政罰とはいえ、死罰(軍律裁判では死刑という言葉は用いません)を含む厳しいもので、中国大陸で行った軍律裁判は多くの中国人を死罰に処しています。

 軍律裁判に関する資料は少なく、その実態は未だに不明のままです。北博昭氏の「軍律法廷 戦時下の知られざる『裁判』」は、名古屋空襲に関して岡田中将とは別に裁判にかけられた伊藤元法務少佐の事例を中心に解説しており、非常に参考になります。

 連合軍が軍律裁判を問題視したのは、それがいい加減なものであることを、彼ら自身が知っていたためだと想像できます。私が知る軍律裁判は、米軍と日本軍の両方がありますが、いずれの事例も別の目的のために行われたでっちあげ裁判でした。軍律裁判は占領者が随意に権力を行使できる、かなり危険な制度でもあったのです。まして、岡田中将は軍律裁判すら行わず、捜査のみで処罰を決定しており、この点が問題にされるのは当然でした。

 これを理解するには、ジュネーブ条約について、制定の経緯から理解する必要があります。過去の戦争において、素朴な「市民のいつわらざる感情」は、捕まえた捕虜を殺害し、負傷した敵兵を手当てせずに放置することを認めてきました。このために兵は余計に殺されてきたのです。この悲惨な状態を減らすために生まれたのがジュネーブ条約であり、国際赤十字組織であったのです。この活動により、戦争による犠牲者を減らすことが可能になりました。ジュネーブ条約により、現在は兵だけでなく、民間人の保護も義務化されています。だから、「明日への遺言」のナレーションは歴史に逆行する考え方を観客に提示しているのです。


捕虜虐待

 日本軍の米軍捕虜の扱いがひどかったのは否定のしようもありません。連合軍捕虜の4人に1人は捕虜収容所で死亡し、残りは全員が栄養失調状態に置かれていました。連合軍捕虜の問題は涙なしに語れないほど悲惨であり、この点で日本軍が国際法を遵守したとはいえません。これに比べると、米軍の捕虜になった日本人は十分な手当を受けています。過酷な日本軍捕虜収容所に生きるイギリス兵を描いた映画「戦場にかける橋」の捕虜収容所は、皮肉にもファンタジーといえるほど人道的に描写されています。

 B-29搭乗員処刑についても、こうした実態の延長線上にある捕虜虐待事件と受け取られる余地がありました。このため、報復的な裁判が行われたことは確かです。戦争が進むに連れて日本軍は捕虜を取らなくなりました。太平洋戦争は殺すか殺されるかだけの戦いであり、国際法は次第に有名無実と化していきました。戦後の軍事裁判はその報復のために行われた面があります。この発想は無茶でしたが、現代においても「日本が大東亜戦争を行ったのは正当だ」とアメリカ人に主張すれば、「日本軍は戦時捕虜を散々虐待し、国際法を守らなかったではないか。どこが正当なのか」と反論が返ってきます。だから、私は議論を提起するために、名古屋空襲を取り上げるようなやり方は不毛だと考えるのです。歴史は歴史として正確に記録し、我々は未来のために有益な議論に力を注ぐべきです。


この作品のどこが問題か?

 裁判を傍聴したことのない人に、戦後行われた軍事裁判を見せ、その不公正さを見せつければ、誰もがアメリカの不正に怒りを感じるはずです。しかし、この程度に不公正な裁判なら、現代の日本の刑事裁判でも見ることができ、現に私はそういう裁判を傍聴したことがあります。昨今、戦後の軍事裁判を取り上げて太平洋戦争の正当性を主張する修正主義的な意見が日本のマスコミに散見されるようになりました。これは裁判の実態を知らない者を簡単に反米主義者に仕立てるための工作のようなものであり、日本映画界はそれに与するべきではないと、私は考えます。

 第2次世界大戦の軍事裁判に問題が多いものが多かった点はアメリカでも十分に認識されています。現代においても、軍事裁判は必ずしも機能せず、公正さは国内法による裁判に比べて不公正なのは認めなければなりません。しかし、それを是正する努力は現在進行形で行われています。国際法は少しずつ改正され、よりよいものにしようという努力が続けられています。もし、戦争を劇映画のテーマとするのなら、こうした努力を支持する内容にすべきであり、単に過去の事件を蒸し返すことには意味が感じられません。そもそも、戦争のような問題はどう解決しようとしたところで満足なものになりようがありません。このジレンマは戦争そのものが消滅するまで続くでしょう。現代においても、そうしたジレンマと闘う人たちがいます。国際司法裁判所の活動、戦地で医療活動を行うNGOや国連機関こそ、日本映画界が取り上げるべきテーマですが、顧みられた試しがありません。この点、日本映画界に強く改善を望みます。



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