マルジャから届いた海兵隊レポート

2010.10.26
追加 2010.10.27 14:30

 military.comが、マルジャ戦の現地レポートを報じました。本来、カンダハル戦が報じられるべき時期ですが、それができないのは、現地に記者が入る許可が出ないためでしょう。このレポートからカンダハル戦を憶測するしか、我々には手がありません。

 以下は、記事の全訳です。これは記事全体を読んで、読者に考えてもらうことを目的としています。

 


マルジャの海兵隊員 型通りの戦争

 

 7ヶ月間の戦地派遣の最初の2ヶ月間、米海兵隊チャック・マーチン伍長(Cpl. Chuck Martin)は、16回の銃撃戦を経験しました。

 彼は2度服をクリーニングに出し、手紙を5回書いて2回受け取りました。彼は378時間を基地で、256時間パトロールで費やしました。彼は140マイル(230km)の、やっかいな爆弾が仕掛けられた農地と腰まで深い水壕を徒歩で横断しました。

 これまでに、彼はズボン8着を破き、靴2足を履き潰し、半リットルの飲料ボトル1,350本を飲み干しました。彼の小隊は戦闘で少なくとも8人の武装勢力を、十字砲火で家畜9頭を殺しました。彼が住み込んでいる頑丈な前哨基地は46回発砲されました。

 「それを言い表すのには、うんざりという言葉がピッタリです」と、ロードアイランド州、ミドルタウン出身の痩せた24歳は言い、武装勢力に悩ませられる、アフガン南部のマルジャ地区での彼の時間をまとめました。

 ラップトップの表計算ソフトに蓄積されたマーチンのリストは、新世代の若い兵隊が故郷から数千マイル離れて成長している田園の戦場の米兵の生活を提供します。

 7月中旬に到着してから、第9海兵連隊第2大隊E中隊の兵士たちは、広漠とした農地の継ぎ接ぎ、ある中隊指揮官が紀元前200年とたとえた、水や電気のない古代の固めた泥の家があるマルジャ北部の、13ヶ所の小さく質素な前哨基地に散らばりました。

 仁川(インチョン)と呼ばれる前哨基地では、うなり声をあげる発電機がムービーを読み込んだラップトップとiPodと、一つは米軍用、もう一つはアフガン軍用の2つだけのライトに電気を供給しています。兵士たちは互いに、不要なヘスコ・バリアの金属材を使い、いくつものぐらぐらする椅子を編み上げました。

 多くの基地で、海兵隊員は戸外で、ホットドッグ型の蚊帳の中の折りたたみ式ベッドで眠ります。トイレはなく、簡易トイレ「ワグ・バッグ(wag bag)」だけ。シャワーはなく、午後の日差しで温めた水を満たせる袋だけ。ノミは困りもので、多くの海兵隊員は手首とベルトに犬猫用に作られたノミ取り首輪を着けるようになりました。

 「疑いなくカルチャーショックです」と、アラバマ州、トゥルースヴィルの21歳、ベンジャミン・ロング伍長勤務上等兵(Lance Cpl. Benjamin Long)は新兵の生活を言いました。「誰かがここに来ると、我々が石器時代の穴居人みたいな生活をしていると思います」。

 オハイオ州、メディナのジェフリー・ベンソン3等軍曹(Sgt. Jeffrey Benson)にとって、一番大変なのは、妻と2歳の息子と離れていることです。

 「家に電話するといつも、私は何かを見逃している、もう一つの人生の節目を見逃していると感じます」と、34歳の分隊長、ベンソンはは言います。

 最優先事項において、ベンソンは、彼が最も恐れるのは、彼の海兵隊員の1人を傷つける結果をもたらす決定を下すことだと言います。

 「私は常に物事を二重にチェックしています」と彼は言います。「海兵隊員は銃撃戦を交えるのを望んでいます。しかし、それは小さなことです。待ち伏せに遭遇するとか、IEDの上を走るとかが、私が最も心配することです」。

 マルジャの危険は海兵隊が到着したすぐあとに明らかになりました。ある初期のパトロールで、彼らが通過していた用水路に、ゲリラが機関銃を撃ったとき、彼らの6人が負傷しました。

 ベンソンが初めて有刺鉄線の外側で兵を指揮した時、タリバン戦士はアフガン兵を吹き飛ばし、彼の無線兵を負傷させた破片爆弾を仕掛けました。数分前、彼は彼の分隊が通ったのと同じ場所でしゃがんでいました。

 ある海兵隊員がうっかり、用水路に渡した、爆発しなかった仕掛けワイヤに踏み込んだのを含め、もっと多くの危機一髪がありました。別の者は、弾丸が彼の無線機から背中に固定されたカメルバック社のハイドレーションパックを貫通し、防弾プレートで最終的に止まった集中射撃を生き残りました。

 パトリック・キャシディ伍長勤務上等兵(Lance Cpl. Patrick Cassidy)は、朝の銃撃戦中、待ち伏せ攻撃が始まったとき、弾丸が彼の頭の6インチに土埃を立てたのを覚えています。

 「何日かはひどいですが、文句は言えません」と、ペンシルベニア州のストラウンズブルグ出身の23歳は、ありがたいことに静かだったパトロールで、迫撃砲の砲身を苦労して持ち運んだあとで言いました。「私はそのために契約をしました。私は自分が何に足を踏み込んでいるか知っています」。

 パトロール基地で、夕食の会話に「爆弾で吹き飛ばされるのと、銃で撃たれるのと、どっちがマシか?」という話が出ました。

 犠牲者を追跡するフェィスブックによると、夏以来、マルジャに展開した米海兵隊2個大隊は、現在のところ21人を失っています。

 ミシガン州のノースヴィル出身の21歳、デイモン・ジョージ伍長勤務上等兵(Lance Cpl. Damon George)は、特に彼らの2人を覚えています。彼が戦死した友人の軍葬から離れた直後、彼の指揮官にもう1人が殺されたと言われました。

 危険にも関わらず、運転手のジョージは、兵士に補給品を運ぶのは重大だと言いました。「たとえ、ポップターツでも、リップ・イットでも…あるいは郵便でも、それは士気の源です」。

 マサチューセッツ州ケープコードの21歳、マシュー・ガーラント伍長勤務上等兵(Lance Cpl. Matthew Gallant)は、24時間で2個の路傍爆弾に当たった車列にいて、その一つは彼の部隊が見た中で最大の爆風でした。その爆発は彼の膝を砕き、運転手の足を2つに裂き、道路に投げ出された機銃手に重傷を負わせました。

 「面白くありません」と、ガーラントはマルジャの道路を運転しながら言いました。「ほとんど、また吹き飛ばされるのを待ってるんです」。

 マルジャは舗装道路がなく、米軍の活動の90パーセントは徒歩です。

 兵士たちは定期的に80~90ポンドの装備品(防弾ジャケット、小銃)の重石をかけてパトロールし、水で満ちた溝の厳しい地形を横断します。用水路のシステムは半世紀前にアメリカの資金援助で建設され、今日は武装勢力と連合軍の両方が、攻撃を避けたり、行うための掩蔽として利用しています。

 「ここの連中は皆、痩せました」とマーチンは言い、1日に3回パトロールしていること、それから休みなく6時間の持ち場が次に交代すると話しました。「本当に打ちのめされますよ」。


 Google Earthでマルジャ(kmzファイルはこちら)北部の田園地帯を確認し、イメージを膨らませながら記事を読むと、現地に派遣された海兵隊員の境遇がよく理解できるでしょう。

 アメリカが作ったという用水路(canal)も、1号線の北側に、それらしいのがあります。この付近の写真をクリックすると、小さな用水路を見ることができます。

 ヘスコ・バリアはリンク先を見ると、どんなものかが分かります。金属棒と布でできた箱に石や土を入れることで簡単に積み上げられる防壁を作る装備です。ここから金属棒を取り出して、椅子に改造した話が書かれているわけです。いかに海兵隊が劣悪な環境にいるかが分かる話です。簡易トイレは樹脂製の便器にビニール袋を敷く仕組みで、最も簡単なトイレシステムです。アメリカ人には原始的でも、補給品でポップターツやリップ・イットのような、企業が製造した美味しい飲食物を受け取ることができます。水も衛生的なのがボトル入りで届きます。ノミ取り首輪だって、現地人にあげたら喜ばれそうです。現地のアフガン人よりは、海兵隊員の環境はよいかも知れません。

 この記事からは4日に1回の割合で戦闘が起きていることが分かります。中隊が13ヶ所に分散していることから、各基地は分隊規模と想像できます。

 海兵隊がやっているのは、タリバンが舞い戻って居座るのを防ぐことだけです。常に存在することでタリバン兵は常駐できません。しかし、少しでも彼らが減れば、タリバンはすぐに戻ってきます。現在でも、情報収集や攻撃のために小部隊が潜入しているはずです。夜になると、農家を回って米軍とアフガン軍の情報を集めたり、住民が敵になびかないように脅して回ることができます。タイトルにあるとおり、これは型通りの戦いであり、勝利につながるようなものではありません。

 カンダハル戦がうまく行っても、これと同じ程度の成果しかあげられないでしょう。ガーラント伍長勤務上等兵がいうとおり、兵士たちはまた吹き飛ばされるのを待っているだけです。まさに、太平洋戦争の日本軍を思わせる光景です。以前と同じで、状況が好転している材料は何一つ見つけられません。一応鎮圧を完了したマルジャで、この調子です。カンダハル戦は、これよりももっと酷いはずです。



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