岩国の米軍人・軍属高校で元特攻兵が講演

2010.4.7


 少し前の記事なのですが、military.comが興味深い出来事を報じています。元特攻隊員が米軍人・軍属の子息が通う学校で、戦争体験を生徒に話しました。

 元神風特攻隊のマツモト・マサユキ氏は、3月19日にマシュー・C・ペリー高校(海兵隊岩国基地内)で生徒に自分の経験とアメリカ人の認識を変えた出来事を語りました。1943年、広島出身のマツモト氏は14歳で、航空学校に通い、グライダー教習課程を学んでいました。翌年、彼が軍人になると、神風特別攻撃隊は人が操縦する兵器「桜花」の実験を始めました。マツモト氏は15歳で神風隊に入り、その任務を遂行する者に選ばれました。広島に原爆が投下された日、出撃する前に家族に会うことを許された彼は、朝6時に列車で広島を離れました。この2時間15分後に原爆が投下され、彼の任務は消滅しました。大規模な破壊と損失に、マツモト氏は米軍人に対して怒りを募らせました。ある日、大阪でマツモト氏は婚約者と共に列車に乗りました。その時、二人の米軍人が日本人用の車両に乗り込んできました。彼らは日本酒かビールを飲んでいて、金を見せて、なにかを言い、彼女を困らせました。マツモト氏は婚約者を守るため、彼は二人に飛びかかり、一人を水の中に投げ込みました。数分で、アメリカ人の憲兵が彼を拘留し、米軍の監禁施設に放り込みました。マツモト氏は、「彼らは自分を殺す。自分は終わりだ」と考えました。一週間後、マツモト氏には、公正な裁判、彼を守る弁護士、目撃者、通訳が与えられました。マツモト氏が驚いたことには、米軍兵士は酔っていて、列車で彼の婚約者を困らせたことを認めました。「数分後には、私は自由になりました。それからアメリカ人に対する私の心は永遠に変わりました」とマツモト氏は語りました。記事は、アメリカと日本の間の熾烈な戦争のあと、一つの事件と誠実な行いが敵と思った者の間に生涯の友情をもたらしたのです、と結んでいます。

 特別攻撃隊や桜花に関する解説も書かれていますが、省略しました。この記事で注目したいのは、酔った米軍人が起こした事件の部分です。ペリー高校は、この部分を聞かせたくて、マツモト氏を呼んだのかと思いました。同時多発テロ以降、アメリカはジュネーブ条約(国際人道法)を無視し、安全保障上の理由を盾に取り、長期間に渡ってテロ容疑者を拘束し続け、裁判にもかけようとしていません。ブッシュ政権の決定には米国内の法律家が反対したものの、バラク・オバマが大統領に就任して、ようやく軌道修正が行われようとしているところです。国際的な理想を指導するはずのアメリカが、かつて自分たちが散々非難したナチス・ドイツと同じことをやってしまったのです。アメリカ国民の間から、こうした問題に対して不満の声が出ています。ペリー高校の教師たちは、こうしたことをマツモト氏の体験を通じて、生徒に知らせたかったのかも知れません。つまり、敵であっても、公正に扱えば、理解してもらえるということです。対テロ戦争での捕虜取扱の問題を直接取り上げるのは、政府批判と受け取られますから、太平洋戦争の話を借用した可能性が考えられるのです。ペリー高校には海兵隊員や軍属の子息が通っているので、海兵隊が太平洋戦争中に日本軍と太平洋上の島々で、ヨーロッパ戦線とは比べものにならないほど激しい死闘を演じたことを、生徒は知っているでしょう。神風攻撃隊についても知っているはずです。米海兵隊は日本との戦いで強化され、現在の立場と地位を確立したのです。そうした敵(日本兵を米軍は狂信的と呼びました)でも、公正な裁きをやってみせれば理解を示す余地があることを、教師は若者に知って欲しかったのかと、私は考えます。高校生たちは、数年すれば社会に出て、軍人になる者もいるでしょう。今から、種をまいておけば、5〜10年後には、理想的な考えを持った者たちが、然るべき場所で仕事をするようになるのです。これによって、アメリカの世論も徐々に変わっていくことになります。こうして歴史は動いていくわけです。

 本日は、他にも興味深い記事があるので、できるだけ後で掲載したいと考えています。


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