現場指揮官が大佐の死を説明

2011.10.24


 カダフィ大佐の最期ついては、いくつかの情報が錯綜しており、一致しません。いくつかの記事から気になるところをまとめました。

 military.comによれば、カダフィ大佐の息子、セイフ・アル・イスラム(Seif al-Islam)の生死は混乱しました。金曜日には、彼は逃走中に見えました。一部の政府大臣は、彼が負傷してズリタン(Zlitan)の病院に拘束されていると言いましたが、病院の軍当局者は彼がそこにいることを否定しました。

 ミスラタ(Misrata)で、カダフィの死体を見るために住人が長い列を作りました。大佐は地元ショッピングセンターの空にされた野菜と玉ねぎの冷凍庫の床上のマットレスに横たえられていました。死体は公衆の目に入れないように冷凍庫に仕舞い込まれたのですが、一度場所が知られると、その意図は強く軽蔑する男を見るという住民の圧倒的な願望に一掃されました。男、女、子供が死体の写真を撮るために列をなして入りました。

 69歳のカダフィの死体は腰がはだけており、胴体と腕は乾いた血の筋がついていました。弾痕が、胸、腹部、頭部の左側に見えました。

 フェイスブックに投稿された新しいビデオ映像は、大佐が拘束された後、殺される1時間以内に、暫定政権軍兵士が混乱しているように見えるカダフィを車へ向けて丘を引きずるのを示しました。元指導者が頭部の左側と首と左肩を覆う血を拭き取った時、若い男が「ムアマール、お前は犬だ!」と叫びました。

 カダフィは若者に自重する態度を示し、こめかみから血を拭き取り、手のひらを見て「何が起きている?」と言います。あとで若い戦闘員がブーツを運びながら「これはムアマールの靴だ!。ムアマールの靴だ!。勝利だ!。勝利だ!」と叫ぶのが示されました。

 カダフィの家族は、ほとんどがアルジェリアか近隣のアフリカ諸国にいますが、カダフィと息子のムタシム(Muatassim)の死に様を調査することを求める声明を出しました。シリアのアル・レイ・テレビ(Al-Rai)での声明で、彼らは2人の男の遺体を彼らの部族に引き渡すよう国際的な圧力を求めました。

 カダフィは生きて捕らえられ、彼が致命傷をどのように、いつ負ったのかについて矛盾する報告がありました。国連人権高等弁務官広報官、ルパート・コルヴィル(Rupert Colville)は彼の最期の映像が非常に不穏だと言いました。「彼が戦いで死んだのか、捕まった後に処刑されたのかを確認するために、さらなる詳細が必要です」。

 地上の戦闘員や指揮官の大半の説明によると、NATO軍の航空機が2台の車両を攻撃した時、カダフィと彼の支持者は逃げる車列の中にいました。カダフィと彼のボディガードが車から逃げ、近くの排水トンネルに避難しました。カダフィがトンネルから現れ、戦闘員に捕まる前、戦闘員は追いかけ、彼らと衝突しました。

 ほとんどの説明は、カダフィが負傷から30〜40分後に、救急車が彼をミスラタに運んだ時に死亡したことを認めました。しかし、説明は彼がどのように負傷したかについて異なっています。

 AP通信が話をした、現場にいたほとんどの指揮官と戦闘員は、捕らえられた時、カダフィはすでに致命傷を負っていたと言います。彼を捕まえるビデオ映像では、彼は頭部から出血しているものの、胸や腹部には血はありません。ある時点で、彼のシャツは胸まで引き揚げられますが、傷は見えません。

 情報大臣、マムード・シャンマン(Information Minister Mahmoud Shammam)は彼が捕まった後で負傷したと言いました。「それは流れ弾だったようで、暫定政権軍やカダフィ軍の両方のものであったかも知れません」。

 別の戦闘員、指揮官、目撃者は、そうした十字砲火もさならる衝突も話しませんでした。21歳の戦闘員、シラク・アル・ハマリ(Siraq al-Hamali)は、彼がカダフィを乗せた車に、車がシルトを去る時に乗ったと言いました。彼は攻撃を受けたことには言及せず、彼はすでに受けていた傷によって途中で死んだと言いました。

 検屍官の報告すら、どの傷が致命傷かについて混乱しました。ある者は頭部への銃弾だと言い、ある者は肝臓への銃弾だと言いました。

 ムタシムはシルトで別に生きて捕らえられ、どのように死んだかは不明のままです。

 アル・レイ・テレビが金曜日に放送したビデオ映像では、34歳のムタシムは血らだけのシャツを着て、戦闘員に囲まれて部屋のマットレスに座っていました。国を盗み、息子を虐待したと訴える、少なくとも一人の男と彼は言い争い、水をがぶ飲みして、タバコを吸っていました。

 横たわるムタシムが前腕を額にあててマットレスの上で横たわる部分でビデオが終わる前、戦闘員はそれから「アッラー・アクバル(神は偉大なり)」と言うように命じます。彼は鎖骨の怪我を調べるようにも見えます。最後のシーンではムタシムが明らかに病院で死んで横たわり、胸に大きな傷があります。

 BBCによれば、カダフィ大佐を捕らえた旅団の指揮官、オムラン・アル・オウェイブ(Omran al-Oweib)は、彼の死に対して完全な責任があると言いました。

 ミスラタ出身の31歳の電気技師であるオウェイブ氏は、大佐の命を救おうとしたと言いました。しかし、カダフィ大佐は病院へ行く途中で、彼の目の前で死亡したと言いました。

 オウェイブ氏はシルト郊外で起きた銃撃戦について詳細を説明しました。

 彼は、彼の部下が大佐を排水パイプから引き出した時、彼らは三方向から銃撃を受けたと言いました。戦いの興奮と混乱の中で、誰が致命弾を放ったかは分かりませんでした。「私は誰がカダフィを殺したのかは分かりません」「(射撃は)穴と通りから来ました。(人々は)横へ走り、自分たちを守るために走りながら撃っていました」。指揮官は何人かの戦闘員が元独裁者を殺したがったと認めました。しかし、彼は彼らにそうしないように頼まなかったと言いました。「私は彼の命を救おうとしました」「しかし、私にはできませんでした。彼のために何もできませんでした。彼が私の敵だとしても、私は彼を裁判にかけるために、生きてミスラタへ連れて行きたいと思いました」。

 オウェイブ氏はカダフィ大佐はパイプから引き出された時にすでに負傷していたと言いました。しかし、彼は激怒した戦闘員の集団に襲われた時、彼は地面に倒れる前になんとか十歩あるいただけでした。彼の部下が彼を最初に捕まえた時、オウェイブ氏は元リビアの指導者は彼の権力が彼の手から滑り落ちたことを理解しないように見えたと言いました。「彼が穴から出てきた時、彼は『何が起きた。待ってくれ。どうしたんだ?。私はお前と共にいる。それをしろとは認めていない。おい!』と言い始めました。彼は自分がまだ大統領か独裁者だと考えていました」。

 指揮官は、結局何とか彼を救急車へ連れ込み、最も近い野戦病院へ向けて走りました。「本当に沢山の検問所が私に止まるように要請しました。私は止まることに同意しませんでした。私は運転手に『行ってくれ。止まらないでくれ。急げ』と頼みました」。しかし、救急車が野戦病院に到着した時、彼らは入り口が車と人で混雑していることを知りました。「私は彼を航空救急で運ぶと決めました」。滑走路は西方で、さらに離れていました。しかし、そこに着く前にカダフィ大佐は死にました。「突然、医者が私に言いました。『カダフィはすでに死んでいる』と」。

 オウェイブ氏は、大佐が復讐心に燃えた戦闘員に処刑されたのではなく、十字砲火で死んだという国家暫定評議会の断定を支持するように見えました。しかし、誰がカダフィの氏に責任があると思うかと尋ねられると、彼は簡単に次のように言いました。「カダフィは最前線で死にました。私はそれに責任があります。私は指揮官です」。オウェイブ氏はいま、電気技師としての民間人の生活に戻る予定です。「私たちは市民革命を始めました。そのあと、カダフィはこの革命を戦争へと変えました。革命はいま始まりました。革命は、我々の国を建設し、我々の国の間違いを正すことを意味するからです」。

 以下は公表されたカダフィ大佐とムタシムの映像です。(不快な内容を含んでいます)

ムタシムの映像


 昨日書けなかった、大佐の最期に関する記事を紹介しました。

 読売新聞は、路上で子供や女性と歩いているカダフィに出くわし、捕まえたという兵士の談話を紹介しています。他の兵士がカダフィをミスラタに連れて行こうとしたので、彼はその場で射殺したと言います。 この証言はまったく信用できません。激戦の中で、大佐が外を歩き回ることはできないからです。

 謎は残るものの、これで大佐の死については少し分かってきた感じがします。まず、200kmも離れたミスラタに運んだというのは不正確で、シルトの西方にある滑走路を使おうとしたのです。飛行禁止措置が取られているので、NATO軍航空機を提供しているのか、暫定政権のものかは不明ですが、ここに救急用の航空機が待機しているわけです。シルト西方に道路を利用した滑走路があるのは分かっていたので、この判断は適切だと感じました(滑走路のkmzファイルはこちら)。現場から見ると、この滑走路はミスラタ方面と言え、ここからミスラタの病院に大佐を運ぼうとしたのでしょう。そのためにミスラタに運んだと報じられたのです。

 しかし、オウェイブ氏の説明は公表されたビデオ映像と食い違いがあるように見えます。大佐が常にオウェイブ氏の手にあり、搬送中に彼の目の前で死んだのなら、ビデオ映像のように、まだ生きている大佐が人々の間で引き回されるような光景はないはずです。一方で、オウェイブ氏の革命観は感動的なまでに健全です。いい加減な嘘をつくような人には見えません。

 ビデオ映像が野戦病院で撮られたもので、この段階で大佐がまだ生きていたのならオウェイブ氏の主張は間違ってはいません。しかし、大佐はほぼ死に近い状態で滑走路へ向けて運ばれ、その途中で医師が死亡を宣告したのかも知れません。結局、死体は航空機へミスラタへ運ばれたのでしょう。

 しかし、大佐の死の状況を正確に検証するには、もう一度ビデオ映像をよく調べる必要がありそうです。



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