原発職員への同情論は無意味
原発事故への対処について、東京電力の社員への同情が集まっているようですが、とんでもない誤りです。いまは同情を優先させるべき時ではありません。
朝日新聞は、ある東京電力社員と家族の会話から「睡眠はイスに座ったまま1、2時間。トイレは水が出ず、汚れっぱなし」「食事はカロリーメイトだけ。着替えは支給されたが、風呂には入れない」「そろそろ被曝量が限界のようだ」という過酷ながら状況を報じました。さらに菅直人総理が東京電力に言い渡したいわゆる死守命令、「撤退などありえない。覚悟を決めて下さい。撤退した時は、東電は100%つぶれます」を合わせて報じています。
週刊ポストや週刊現代も菅総理の死守命令を批判しています。しかし、この事故で東京電力は手を引けない立場にあります。私が現場にいても、やはり覚悟を決めて事態にあたることになると思います。なぜなら、原発技術者は最後の防衛線です。撤退が許されないのは当然です。被災地では、他人の命を助けて犠牲になった人が沢山いることも分かってきました。それを考えたら、いまは彼らは原発の事故を解決することに全力を投じるべきです。
そういう技術者たちを支援する態勢は東京電力が構築しなければなりません。仮眠する場所もなく、短時間しか眠れない、簡易トイレや太陽エネルギーで動くバイオトイレもなく、非常食の備蓄もなし、身体を拭く道具もないとするなら、これはすべて東京電力の不備です。現場はこれで何日耐えられるのかという疑問が湧きます。このまま疲労が蓄積すると、思わぬミスが起こりかねません。
昨日の作業員の被爆は、そんなところにも原因があるかも知れません。その作業員の被曝について、東京電力が18日の時点で1号機のタービン建屋地下で高い放射線を検出していながら、作業員に周知していなかったことを認め、事故は防げたはずだったと謝罪したことを時事通信が伝えています。昨日私が指摘したことに近く、唖然としました。
このように、いわば兵力である原発職員を無駄に負傷させれば、それだけで自分たちの戦力、持久力が損なわれるという感覚が東京電力にはないのです。
東京電力やその協力会社の社員たちが称賛されるのは、危機が完全に収まった後での話です。様々な場所で原発職員に対する称賛の声があがっていると聞きます。同時に、菅総理の死守命令に対する批判の声も各方面から聞きます。前にも書きましたが、私は菅総理の発言には問題はあるものの、目の前にある危機に比べたら大した問題ではないと考えます。また、撤退は考えずに対処することを考えるのは、この場合は必要です。
それよりも、とても重要な情報も出てきています。週刊現代(4月2日号)は福島第1原発の原子炉は70年代から格納容器が小さすぎて水素爆発で破損する危険性が指摘されていて、4号機の設計に関わった田中三彦氏は、4号機の圧力容器が製造過程で歪んだことがあったと指摘しています。いまは何とか調整している温度と圧力が機器の不備などで不可能になったら、最悪の事態が起きる可能性があります。政府発表は福島第1原発が非常に危険な状態なのに、それを常に軽く見せています。
変な同情はすべきではありません。私が最も唖然としたのは、週刊ポスト4月1日号に載った、以下の櫻井よしこ氏の意見でした。
ある高齢の女性が、救助してくれた自衛隊員に「すみません、ありがとうございます」といいながらヘリに上がっていった姿が印象的でした。この礼儀正しさ、感謝の心ーー外国人が驚くのも当然だと思います。
私はこうした人々のなかにこそ、日本人の美徳が残っていると信じます。
国民が自衛官に頭を下げる文化が素晴らしいと、この大震災の直後に感じ入る感覚が私には理解できません。私がその自衛官ならむしろ恐縮してしまったことでしょうし、何も言わないで乗り込む人がいても気にならないでしょう。なぜなら、そこにいる自衛官は人々が慣れないヘリに乗り込むのを補助するためにいるのであり、そこに意識を集中しているはずだからです。キャビンアテンダントがお客に挨拶するために入り口に立つのとは意義が違います。
この未曾有の大震災を前に、こんな小さなことを気にしているのは、むしろ注意散漫であり、危険なことだと言うべきです。物事は優先順位の高い順番に処理していくのが基本なのに、低いものにこだわるのは無意味です。
現場の状況を間接的にしか知れない我々は、感情的に状況を把握するのではなく、客観的に見るべきです。
military.comが原発事故関係の記事を2件報じていますが、それほど目新しいことがないので省略します。(記事1・記事2)
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