ビン・ラディン襲撃の詳細

2011.5.3


 military.comに襲撃の詳細が掲載されました。「the LA Times」からの引用を含みます。もう少し詳しい情報が欲しいところですが、とりあえず掲載します。

 海軍特殊戦開発グループ(The Naval Special Warfare Development Group: DEVGRU)のシールズとCIA特殊活動局の射手、アナリストが4機のMH-60「ペイブ・ホーク」とMH-47「チヌーク」でアフガン基地(ジャラバード基地? バグラム基地?)からアボタバードのビン・ラディンの住居へ飛びました。

 大半は海軍シールズの約40人が参加し、24人がホバリングするチヌークから住居へラペリング降下しました。当局者は銃撃戦は激しく、かなりのものでした。

 襲撃は約40分間続き(戦線のずっと後方の目標に対しては長すぎる時間と思われます)、ヘリコプター1機が機械的な問題で着地し、現場で破壊されました。

 米兵は数回、少なくとも1回は頭部に発砲する前に、降伏するための短い機会と描写されるものをオサマに与えました。


 「DEVGRU」の部分を原文は「DEVRGU」と誤記していますので、直して掲載しました。

 この記事で興味深いのは、部隊編成にある種の気配りが見られることです。それは、全軍を参加させるという「名誉」への配慮です。

 ヘリコプターは多分、空軍のMH-60と陸軍のMH-47でしょう。海軍のシールズを運ぶのに、わざわざ他軍の機材を使ったのです。 普通なら、海軍のヘリコプターを使うはずで、これが作戦に問題を加えた恐れもあります。現場で1機が行動不能になったのは「機械的な問題」とされますが、慣れない作戦で建物に衝突するなどのトラブルを起こした可能性もあります。こういう失敗を隠すのに「故障」を理由にするのは珍しいことではありません。

 CIAの射手がいたのは目的が不明ですが、アナリストたちの警護かも知れません。狙撃手ならシールズにもいるでしょうし、この作戦で狙撃手が必要かどうかも疑問です。

 作戦に不可欠なのは襲撃に同行したアナリストです。彼らはビン・ラディンを本人と特定するための専門家でしょう。しかし、本来なら、海軍のヘリコプターとシールズ、アナリストがいれば、この作戦は十分に行えるのです。しかし、それでは主に海軍だけが参加することになり、手柄を独り占めしてしまいます。そこで、全軍を何らかの形で参加させるのです。

 こういう気配りは、ペルー日本大使館襲撃事件で、ペルー軍が大使館に突入した際にもみられました。私はこういう気配りは無用と考えますが、軍人にとって名誉は無視できないことのようです。

 降下した24人は2個小隊で、想像ですが、別々に庭と屋上に降りたのだと考えます。上と下から同時に攻めた方が、同士撃ちをしない限りは、敵に対する強い圧力となります。多分、シールズは2機のMH-60に乗り、アナリストなどが1機のMH-47に乗り、もう1機は予備だったかも知れません。

 しかし、敵が10人もいないのに、24人で攻撃して40分間もかかったとは信じがたいものがあります。記事の著者が言うとおり、時間がかかりすぎています。ヘリコプターの件に対処するのに時間がかかったのかも知れません。

 出発地点がジャララバード基地だったとすると、現場まで約253km、バグラム基地からでも375km。ジャララバードからは、ヘリコプターで1時間程度で到達します。 40分間には、ビン・ラディンの遺体を確認する時間が含まれているのかも知れません。

 投降の呼びかけが行われたことは疑問です。ロイター通信はシールズへの命令は殺害であり、拘束ではなかったと報じています。そうだとすれば、投降を呼び掛けるはずはありません。

 ビン・ラディンの失敗は脱出口を作っておかなかったことです。地下を通って、邸外に出られるような地下道を掘っておくべきでした。どの階からも、ハシゴで地下道に降りられるようにするのです。近くにガレージでも建て、そこに車を置いておき、地下道を通って行けるようにしておけば、夜襲を逃れることができたはずです。短時間しか現場にいられない襲撃隊は、目標を見つけられずに帰投するしかありません。厳重に造ったつもりの邸宅が、逆に自分を閉じ込める結果となりました。テロリストの指導者としては、危機管理ができていなかったということです。

 ところで、この襲撃で一番困っているのは、リビアのカダフィ大佐かも知れません。反政府派はアルカイダだという彼の主張が弱くなりますし、同じように自分も殺されるかも知れないと恐れるかも知れません。


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