アルカイダが南部州都を占領
2011.5.31
追加 2011.6.1 5:30
military.comによれば、約300人のアルカイダ系武装勢力がイエメン南部のジンジバル(Zinjibar・kmzファイルはこちら)を土曜日遅くに奪取しました。
目撃者ファデル・ムバレク(Fadhel Mubarek)は、政府軍が命のために逃げた後で市の法と秩序は壊れたと言いました。武装した者たちが銀行とすべての政府施設で略奪をしました。武装勢力が民間人を傷つけないと保証したにも関わらず、多くの家族が街を出ました。彼らの狙いはイスラム国家を建設することだとムバレクは言いました。街から撤退した後で、イエメン軍は街を戦車と重砲で撃ちました。武装勢力は携帯型ロケット弾で応じました。「兵士の死体が通りあり、砲撃によりそれらを片付けられません。住民は極度の高熱の中、水と電気のない家に閉じ込められています。もう1人の目撃者は、武装勢力が報復のために街の治安当局者を捜していると言いました。
四面楚歌のアリ・アブドラ・サレハ大統領(President Ali Abdullah Saleh)の反対者たちは、サレハ大統領がデモ参加者たちの要求に対応すれば、アルカイダが国を乗っ取るかもしれないという西欧の不安をかきたてようとして、武装勢力がジンジバルを自由に奪取するのを許したと彼を批判しました。
別の展開で、強力な共和国防衛隊の旅団が南部州で反政府側につきました。第9旅団指揮官イブラヒム・アル・ジェイフィ准将(Brig. Gen. Ibrahim Al-Jayfi)からの手紙が、日曜日にダマール(Damar・kmzファイルはこちら)の州都で大勢の人たちに読まれました。
先週5日間、サレハ大統領の軍隊と戦った戦士、強力なハシッド族(Hashid tribal)連合のシーク・サデク・アル・アマル(Sheikh Sadeq Al-Ahmar)はサレハ大統領を倒すのを助けるよう依頼しました。首都サヌア(Sanaa)では政府軍とアル・アマルに忠実な部族民の戦いがありました。「今日、我々は、善意を示し、さらなる流血を防ぐために地方行政省を部族の調停者に手渡すことに合意しました。我々は依然として産業省、寄贈省(宗教的な寄附を扱う政府部署)、観光省を支配しています」と、アル・アマルの広報官、アブドル・カイ・アル・カイシ(Abdul Qawi Al-Qaisi)は言いました。アル・カイシはサレハ軍がハサバ地区(Hasaba district)により多くの兵士を派遣するために休戦を利用したと非難しました。ハドラマト州(Hadramaut province)では、治安部隊が土曜日にセイエン(Seiyun・kmzファイルはこちら)で行方不明になった3人のフランス人を探していました。
有力な部族が反政府派となり内乱が起きているところに、アルカイダが参入して街を占拠したということです。そして、反政府派はサレハ大統領が欧米の注目を惹くために、アルカイダの活動を黙認しているのだと非難している構図です。
反政府派の批判はあたっていないだろうと思います。産経新聞も反政府派の主張に沿った記事を書いていますが、このような混乱の中で、テロ組織をわざと放任することは、自分の首を絞めかねません。撤退後に街を砲撃しているのは、アルカイダを攻撃したものでしょう。混乱の中で、憶測が飛び交うのは当然で、そうした流言に報道機関が流されるべきではありません。
イエメンは国は貧しいもののかなり強力な軍隊を持っているように見えます。しかし、globalsecurity.orgの記事によると、イエメン軍は汚職にまみれています。陸軍には6万人の現役兵と4万人の予備役がいることになっていますが、この数字は水増しされており、約3分の1が勤務につかないとか、そもそも存在しない幽霊兵士だとされます。いない兵士の給料は将校が着服します。武器は横流しされています。それでも6〜7万人の兵士がいることになります。反政府派が勝つかどうかは、政府軍と反政府派の勢力を比較するしかありません。目下、その正確な数字は不明です。
とりあえず、反政府派の指導者、アル・アマルについて、aljazeera.netの情報を簡単にまとめました。
1956年10月6日生まれ。イエメンで最大のアシェド族(Hashed tribe)の族長。シーク・アブドラ・ビン・フサイン・ビン・ナセル・アル・アマル(Sheikh Abdullah bin Husayn bin Nasser al-Ahmar)の息子。サデクはアシェド族の故郷、アムラン(Amran)のアル・カムリ村(al-Khamri)の生まれ。
北イエメンがイギリスに対して独立を宣言した時、彼の父は家族をサヌアへ移動させました。 エジプトの大学に留学。国と父の関係が悪くなった時に帰国。イエメンで卒業後、1982年にアメリカに留学。1987年に小型民間機の免許をとって帰国。
1993年、イエメンの議員となりました。アル・アマル家はイエメンで突出した役割を演じ続け、父はアリ・アブドラ・サレハ大統領の支持者でしたが、息子たちはそこまで支持していないように見えました。有名なビジネスマンのサデクの兄、ハミド(Hamid) は、しばしばサレハの後継者とされました。
2008年に父が死ぬと、サデクは、サレハ自身の部族を含むアシェド族の族長に選ばれました。
2011年2月にサレハに対する民衆の反乱が起きると、サデクは議会を辞めました。2011年3月20日に、サデクは抗議者の声に応え、サレハ大統領に辞任を求める声明を出しました。その声明は数人の宗教指導者によって共同署名され、北西部の軍管区を担当するアリ・モーセン・サレハ少将(Major General Ali Mohsen Saleh)が抗議者を支持すると宣言しました。
2011年5月24日、サデクと政府の軍が衝突しました。これは数日間の戦いとなり、サデク軍は、内務省を含む政府の目標を攻撃し、政府軍はサヌアにあるサデクの住居を攻撃しました。
5月26日までに、戦いの死者は40人以上、多数が負傷したと報じられました。
その日、サレハ大統領はサデクと彼の9人の兄弟に、政府に対する反逆罪で逮捕状を出しました。
少なくとも北西部と南部の軍管区で軍が政府から離反しています。これは反政府側には良い兆候です。サヌアはその真ん中にあり、北と南から攻められることになります。イエメンは大半が砂漠や荒野であり、大きな街はそれほどないことから、市街地の奪い合いも比較的短時間に済みそうです。あとは双方の戦力ができるだけ正確に分かれば、戦いの行く末は見当がつきそうです。
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