右腕を失った軍曹が名誉勲章を受勲

2011.6.3


 military.comによれば、米陸軍レンジャー隊員が名誉勲章を受け取ることになりました。生存している軍人が名誉勲章を授与されることは珍しく、イラク・アフガニスタン戦を通じて彼はその2人目です。

 授与式は7月12日です。授与されるのは第75レンジャー連隊のルロイ・アーサー・ペトリ1等軍曹(Sgt. 1st Class Leroy Arthur Petry)で、2008年5月26日の戦闘での功績を讃えられます。この時、ペトリ1等軍曹は第2大隊D中隊に配属されていました。彼の行動は価値の高い目標に対する、希な日中の襲撃の一環として起こりました。その日、彼は確保された目標の建物の中の小隊本部にいました。彼は作戦が完了するまで、現場で上級下士官として活動することになっていました。

 急襲する分隊が割り当てられた建物を掃討するのに支援が必要だと判断すると、ペトリ1等軍曹は小隊長に、その建物を掃討する間、その分隊に追加の指揮・監督を提供するために移動することを願い出ました。建物の居住部分が掃討されると、ペトリ1等軍曹は中庭を掃討するために、分隊のルーカス・ロビンソン上等兵(Pvt. 1st Class Lucas Robinson)を連れて行きました。彼はそこは初期の掃討でまだ確保されていないことを知っていました。

 ペトリとロビンソンは、外の中庭の反対端から友軍と戦う準備をした、少なくとも3人の敵兵士がいる場所へ移動しました。2人の兵士は中庭に入りました。前方は鶏小屋が続く空き地でした。2人が開けた場所を横断すると、武装勢力が彼らに発砲しました。ペトリ1等軍曹は1発の銃弾で両足に被弾しました。ロビンソン上等兵も別の銃弾が(防弾ベストの)サイドプレートに被弾しました。銃弾の中、ペトリとロビンソンは鶏小屋に隠れました。敵は2人に発砲を続けました。先任の兵士として、ペトリ1等軍曹は状況を評価して、交戦が起きて、主要目標の建物の中庭でレンジャー隊員2人が負傷した、と報告しました。

 報告を聞いて、チーム指揮官のダニエル・ヒギンズ3等軍曹(Sgt. Daniel Higgins)が周囲の中庭に移動しました。ヒギンズがペトリとロビンソンの位置に移動すると、ペトリ1等軍曹は敵の近くにサーモバリック手榴弾を投げました。直後に手榴弾が爆発し、敵の銃撃は止みました。ヒギンズ3等軍曹は鶏小屋に到達すると、2人の兵士の傷を調べました。

 ヒギンズが傷を診断する間、武装勢力は3人のレンジャー隊員がいる鶏小屋を越えて手榴弾を投げました。手榴弾は3人のレンジャー隊員から約10mのところに落ち、彼らを地面に押し倒し、ヒギンズとロビンソンを負傷させました。手榴弾が爆発した直後、ジェームズ・ロバーツ2等軍曹(Staff Sgt. James Roberts)とクリストファー・ゲザーコール技術兵(Spc. Christopher Gathercole)が中庭に入り、鶏小屋に向けて進みました。

 3人の兵士が鶏小屋に隠れた状態で、敵兵は別の手榴弾を彼らに投げました。この時、手榴弾はヒギンズとロビンソンから僅か数フィートに落ちました。戦闘報告によると、敵の手榴弾が戦友に脅威をもたらすと認め、ペトリ1等軍曹は彼自身の負傷や個人的な安全を完全に無視し、敵の点火した手榴弾を移動して安全化するために、意識的また故意に彼の命を危険にさらし、意識的に手榴弾を仲間のレンジャー隊員から遠くに投げました。ヒギンズとロビンソンが重傷を負ったり、死ぬのを防ぐために、ペトリ1等軍曹が手榴弾を敵の方角に投げた時、それは爆発し、彼の右腕を切断しました。はっきりとした意識の中で、ペトリ1等軍曹は自分の傷を調べ、止血バンドを右腕に装着しました。これが終わると、彼は依然交戦中で、再び彼が負傷したと報告しました。

 ペトリの腕が切断された後、ロバーツ2等軍曹は鶏小屋の背後から小火器と手榴弾で敵と交戦を始めました。彼の行動は鶏小屋の向こうの武装勢力を押さえ込みました。直後に、中庭の東端の別の敵が発砲を始め、ゲザーコール技術兵が致命傷を負いました。ヒギンズとロビンソンが応戦し、敵を殺しました。

 その直後、小隊軍曹のジェロッド・ステイドル1等軍曹(Sgt. 1st Class Jerod Staidle)と小隊の衛生兵、グレイ・ディプリスト技術兵(Spc. Gary Depriest)が中庭の外に到着しました。ディプリストにゲザーコールを治療するよう指示した後、ステイドル1等軍曹はペトリ1等軍曹がいるところへ移動しました。それから、ステイドルとヒギンズはペトリを負傷者の集結地点へ移動するのを補助しました。

 ペトリ1等軍曹はイラクとアフガン戦を通じて9人目の名誉勲章受勲者です。彼は現在、北西地域の米軍特殊作戦軍介護連合(the United States Special Operations Command Care Coalition)の連絡官として勤務し、戦闘での負傷兵、病気や怪我をした兵士と彼らの家族に監視を提供しています。

 彼は1999年9月に故郷のサンタフェから陸軍に入隊しました。同一駐屯地部隊訓練(One Station Unit Training)、基礎空挺教程(the Basic Airborne Course)とレンジャー評価・選別プログラム(the Ranger Assessment and Selection Program)を完了した後で、彼は第75レンジャー連隊第2大隊に配属されました。彼は、擲弾兵、分隊自動火器手、射撃チーム指揮官、分隊長を務め、軍曹と武器分隊指揮官を務めました。彼は8回(イラクへ2回、アフガンへ6回)の海外派遣を行いました。妻と4人の子供がいます。


 コメントや既知の事柄など、記事の一部は省略しました。

 同一駐屯地部隊訓練は、米陸軍の一部の部隊で行われている訓練です。基礎戦闘訓練(Basic Combat Training)が終わったあとで、再配属することなく、同じ訓練教官が上級個別訓練(Advanced Individual Training)を行うことを指します。

 やっと9個目の名誉勲章です。同時多発テロ以降、名誉勲章の数が他の戦争と比べて少ないことが、この戦いの特徴となっています。

 ペトリ1等軍曹の軍歴と武勇には脱帽です。怪我がなければ小隊軍曹になるべき経歴を積んでおり、両脚に銃弾を受けながらも、手榴弾に対処しようとした勇気は称賛されて然るべきです。

 この戦いを客観的に分析した場合、ペトリ軍曹が待ち伏せ攻撃を受けたのは許容するとしても、応援に駆けつけたヒギンズ3等軍曹の行動には問題があったと言わざるを得ません。敵が交戦しているのだから、まず攻撃を止めさせるべきです。ペトリが手榴弾で敵を沈黙させたとしても、それで安心したのは誤断です。応援が次々と来ることを信じ、彼がやるべきなのは、さらに手榴弾や発煙弾を投げるとか、敵のいる位置に銃弾を撃ち込むなどして、追加の攻撃を防ぐことです。応急処置をすることで、視線が手元に限られて敵の監視ができなくなります。敵が数十メートル先にいることを考えると、これは驚くべき行動です。彼は恐くなかったのでしょうか。

 記事には書いてありませんが、応援に駆けつけたゲザーコール技術兵は戦死しています。上に示した特殊作戦軍介護連合のウェブ画面の右側「Fallen Heroes」をクリックして、戦死したレンジャー隊員の中に彼の顔写真があります。ヒギンズ3等軍曹の対応が違っていれば、彼は死なないで済んだ可能性があります。



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