アメリカがタリバンとの和平交渉を模索
military.comによれば、アメリカは7月の米軍撤退を前にタリバンとの和平交渉を模索しています。
ワシントンのマーク・グロスマン特使(Marc Grossman)には、アフガニスタンの反目し合う派閥を調停するという課題があります。しかし、交渉の相手を探すワシントンはタリバンの中で価値のある交渉をするのは誰かについて、ほとんど知識がありません。パキスタンのイスラマバードの安全保障研究センター(the Center for Research and Security Studies)の長、イムティアズ・グル(Imtiaz Gul)によれば、グロスマンはタリバンの指導者、ムラー・モハメッド・オマル(Mullah Mohammed Omar)に接触しようとしています。イスラマバードでの今年初期の会議で、グロスマンはグルに、彼は「ムラー・オマルへのアクセスを提供でき、ムラー・オマルへの接触する能力を示せて、彼を船に乗せられ、ムラー・オマルに交渉を始めることを理解させられる人物かグループ」を探していると言いました。
本当の話し相手を見つけるのは、つかみ所のない仕事です。タリバン指導者の多くは米政府当局に知られていません。たとえば、昨年、パキスタンのクエッタで、小売店経営者がタリバンの元航空大臣、ムラー・モハメッド・アクタル・マンスール(Mullah Mohammed Akhtar Mansour)をかたり、騙されたと知る前に西欧の当局者が2度会いました。AP通信は、アメリカがタリバンの2人以上のメンバーと一連の会議を開いたことを知りました。アメリカがテロリストに指定するグルブディン・ヘクマティアル(Gulbuddin Hekmatyar)とハッカニ・ネットワーク(Haqqani network)が率い、NATO軍とアメリカがアフガンで最大の敵とするヒズブ・エ・イスラミ(Hezb-e-Islami)の代表との接触もありました。
今年初め、ドイツの週刊誌「Der Speigel」は、ドイツ当局者が、ムラー・オマルの私的秘書テイヤブ・アガ(Tayyab Aga)に接触するのを支援していると報じました。彼は2001年12月に米軍の侵攻直後、カンダハル州から戦士が逃げる前の最後の広報官でした。アガとの接触を持つことはアメリカ主導だったと西欧の外交官はAP通信に言いました。アガが最後に目撃されたのは、カンダハル州スピン・ボルダク(Spin Boldak)で最後のタリバンの記者会見を開いた2001年11月21日でした。タリバンはハミド・カルザイ(Hamid Karzai)が大統領に指名され、米主導の連合軍がタリバンが全土で敗北したと発表した2001年12月7日にカンダハルから逃げました。
その時、アガは25歳で、オマルの個人的な秘書でした。タリバンには比較的新参者のアガは、1996〜2001年までタリバンがアフガンを統治した時の側近メンバーではありませんでしたし、戦闘経験もありませんでした。しかし、彼は英語を上手に話し、タリバン統治の最後の年々で目立ち、オマルの広報官を務めました。2001年以降、彼の名前はクウェッタ・シューラ(Quetta shura)のメンバーにのぼりませんでした。
アガが未だにオマルとつながり、オマルがアメリカとの接触を了承するかは不明です。タリバンは誰もアメリカやアフガン政府と交渉をしていないと明確に否定しています。匿名を条件に述べたパキスタン保安担当高官は、オマルは交渉の拒絶にこだわっていると言いました。
この地域の西欧外交官によると、アガはアメリカが和平交渉の意志を直接・間接にテストしたと報じられる数人の武装勢力の1人です。これには元タリバン情報大臣、クタラドラ・ジャマル(Qatradullah Jamal)も含まれます。この線はグループの指導者の兄弟でヘクマティアルの代理人である、ジュラルディン・ハッカニ(Jalaluddin Haqqani)の兄弟、イブラヒム・ハッカニ(Ibrahim Haqqani)にもつながると、彼らは言います。彼らは会議を交渉ではなく、予備的な接触と呼びます。グアンタナモベイ収容所の拘留者によれば、ヘクマティアルはビン・ラディンが2001年11月にトラボラ(Tora Bora)から逃げた後、少なくとも10ヶ月間かくまいました。タリバン統治の間、ヘクマティアルはイランに亡命しました。彼の戦士はタリバンに強い敵意を持ち、アメリカの試みを難しくしています。
アフガン当局によると、ヘクマティアルの戦士は東部のナンガルハル州(Nangarhar province)でタリバンと戦います。元タリバン兵はAP通信にオマルはいつも支持者たちに、二心があり信用できないヘクマティアルとは決して交渉をしないと言っています。
ほとんどのタリバンと同じくパシュトゥン人のヘクマティアルは北部同盟と激しく戦いました。2001年に米主導の連合軍は北部同盟と共にタリバンを追い出しました。北部同盟すら、変化に富んだ過去を持ちます。タリバンに追放される前の1992〜1996年に彼らがアフガンを統治した時、彼らの激しい戦いはカブールの巨大な一帯を破壊し、大半が民間人の50,000人が死亡しました。
5月2日のビン・ラディン殺害に怒ったままのパキスタンはワシントンの活動を難しくするだけです。パキスタンのタリバン、ハッカニとヘクマティアル両方との歴史的なつながりは、アフガンからの政治的な脱出を模索するアメリカの努力のために、その協力を不可欠にしていると当局者は言います。しかし、それは北部同盟からはパキスタンを非常に疑わしくします。北部同盟はパキスタンをタリバンを支援し、アフガンを不安定にする自爆攻撃を行うために送り込んでいると訴えます。
政治家に転向したアフガンの元情報局長、アムルーラ・サレハ(Amrullah Saleh)はアフガンの敵としてタリバンとパキスタンを一まとめにしています。彼は以前に、イスラマバードは代理人としてタリバンを権力に復帰させようとしていると主張しました。彼はアフガン政府はタリバンとの見込まれる会談の必要性を述べる必要はなかったと言いました。「常に政府が敵を『兄弟』と呼び、その一方で敵は彼らを侮辱し、自爆攻撃を行い、IEDを設置し、罪なき人々を殺しています」。
アフガン人権委員会のネーダー・ナデリー(Nader Nadery)は、アメリカとNATO諸国の厭戦気分は、短期間の暴力停止をもたらす交渉への圧力を増しつつありますが、(米軍とNATO軍が)撤退した時により多くの戦いを導くでしょう」と言いました。
すでに読者の頭は困惑しているかもしれません。到底、タリバンとの和平は無理ではないかと…。
ダメ押しでさらに書くと、タリバンと和平する以上は、彼らを合法的な政治組織として認め、選挙への立候補を認める必要があります。しかし、彼らの主張はあまりにも過激で、西欧の常識とは相容れません。タリバンがアフガン国民に信頼されるのは犯罪者を無償で拘束し、処罰することです。しかし、それには残虐な刑罰も含まれ、到底西欧諸国には受け入れられません。アフガンの議員となれば、海外の議員との交流も始まります。アメリカの政治家にとって、タリバンの政治家の主張は思わず席を立ちたくなるようなものです。また、タリバンは和平が必要なほど追い詰められてもいません。わざわざ交渉する理由もないのです。カンダハル掃討作戦は失敗に終わり、カンダハル西方のセンジュレイ(Senjeray)あたりで戦っているのは分かっていますが、そこから前進して市内を掃討したという話も聞きません。
このまま時間切れとなり、成果があったという無理な宣言をオバマ大統領がすることになるというシナリオは変わっていません。それでも、アメリカ国民は、オバマ大統領がアフガン侵攻を考えたのではないし、ビン・ラディンは死んだのだしと自分を納得させるので、大統領にとって大きな障壁にはなりません。
|