末息子ハミス・カダフィの生死が不明に
military.comによれば、リビア政府はカダフィ大佐の末息子、ハミス・カダフィ(Khamis Gadhafi)がズリタン(Zlitan)へのNATO軍空爆により死亡したという報告を金曜日に否定しました。
金曜早朝、反政府派広報官は、ハミスが金曜朝のズリタンの政府活動センターへのNATO軍の爆撃で死亡した32人の中にいたと言いました。しかし、カリド・カイム外務副大臣(Deputy Foreign Minister Khaled Kaim)はハミスが生きており、金曜日に彼が無事であると政府当局と話をしたと言いました。「彼は無事で生きています。(彼らが死んだと言った)報告はまったくの嘘です」とカイムは言いました。
彼は反政府派が、アブデル・ファタ・ユネス(Abdel-Fattah Younis)の殺害から注意を逸らすためにハミスの死を流布していると言いました。
NATO軍は声明の中で、ハミスが殺されたという報道を承知しているものの、彼の死を確認していないと言いました。木曜夜の同盟軍の空爆はズリタンにある弾薬集積所と憲兵の施設を攻撃したと言います。
反政府派広報官、モハメッド・アル・ラジャリ(Mohammed al-Rajali)はハミスが金曜早くに、NATO軍が政府活動センターを攻撃した時に殺されたという未確認の報告があると言いました。「我々はこれらすべての犯罪者を捕まえ、司法の場に連れて行きたいと思っていますが、彼らを殺すことが流血を止めるのならば、私はこれがもう1つの選択肢であると考えます」とアル・ラジャリは言いました。
27歳のハミスの死は、反政府派を打破しようとするカダフィ政権に対する重要な打撃です。彼はハミス旅団として知られる、リビア軍で最もよく訓練され、装備されている第32旅団を指揮します。
ハミスの兵士たちは数ヶ月間、ズリタンの周辺で反政府派と戦ってきました。町はミスラタから首都への道を築こうとする反政府派の通り道で主要な障害物です。内戦は、ズリタンとさらに東のブレガ(Brega)の周辺で、手詰まりに陥りました。
反政府派がハミスが死んだと報告したのは、これが最初ではありません。3月末、彼が空爆で死んだという噂が広まりましたが、数日後に国営テレビはトリポリのバブ・アル・アジジヤ(Bab al-Aziziya)で祝賀会に出席した彼を映しました。
カダフィの息子と娘はすべて、父親の政権において、一部は外交やビジネス分野で役割を果たしてきました。彼の息子、ムタシム(Mutassim)、ハミス、アル・サーディ(al-Saadi)は全員が旅団をもっています。3番目の息子、サイフ・アル・イスラム(Seif al-Islam)は政権の西欧向けの顔で、反乱が始まる前は様々な青年団を率いる改革者として前面に出されましたが、5月に空爆で死亡しました。
ハミスはリビアが西ベルリンでの米兵と女性を殺した爆弾事件を立案指揮した件で批判されたあと、1986年にアメリカの爆撃で負傷しました。彼はその時、2〜3歳でした。
2月の反乱が始まる8日前、ハミスは米国を訪問中に、コロラド州の米空軍士官学校のVIPツアーを与えられました。帰国後、彼は反政府派が保持するザウィヤへの攻撃でカダフィ軍を指揮し、彼の父親に対する抵抗は鎮圧されました。
ズリタンの戦況に関する情報はかなり錯綜しているようです。ハミスが死んだというのはズリタン内部に潜んでいる反政府派からの報告でしょう。彼らも、事実関係を確実に知っているわけではないかも知れません。空爆の目標がNATO軍と反政府派で異なっているところは気になります。
一方、リビア政府はハミスの生きた姿を示していません。だから、旅団指揮官の死を隠しているとも受け取れます。彼の生死については今後の確認が必要です。
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