タリバンがカタールに連絡事務所を設置へ
military.comによれば、アフガニスタンのタリバンがカタールに連絡事務所を置くことで同国との予備協定に達したと言いました。
タリバンの広報官、ザビウラ・ムジャヒッド(Zabiullah Mujahid)は連絡事務所はアフガン政府を除く国際社会との交渉を行うと言いました。カルザイ大統領は連絡事務所を拒否する意向です。ムジャヒッドは事務所をいつ開設するかを言いませんでした。
アフガンの専門家は、カタールに事務所を開くタリバンの決定は、アフガン南東部での米軍主導の軍事作戦の結果だと言いました。特殊部隊による急襲は下級、中級のタリバン指揮官大勢を捕まえました。「この提案は何ヶ月間も起こるとみられ、NATO軍が戦闘任務を終える2014年の前のある時点で選択肢を増やしたいという論理です」とロンドンのキングズ・カレッジのテオ・ファレル教授(Theo Farrell)は言いました。「なぜ今かが問題です。タリバンが軍事作戦の圧力を感じている徴候かも知れません」「しかし、内部の権力闘争の結果で、協調的な見解を持つ指導者が強硬論者よりも支配的になり、政府との接触を道を開こうとしているのかも知れません」。
和平協議は9月に元大統領のブルハヌディン・ラバニ(Burhanuddin Rabbani)がタリバン特使を装った攻撃者に暗殺されたことで難儀しました。カルザイ大統領は和平交渉はタリバンが政治的な事務所を確立することでだけ起きると言いました。しかし、カタールの計画がカルザイ大統領なしで処理されたように見えた時に、カルザイは躊躇しました。先週、カブールの政府はタリバンが事務所を開くという報告についてカタール大使を召還し、サウジアラビアとトルコがより望ましい場所ではあるもののカタールの事務所を受け入れると言いました。
別のmilitary.comの記事によると、パキスタンのタリバンはパキスタン政府軍との戦いを止めて、アフガンでNATO軍との戦いに加わると言いました。
マクラッチー紙によれば、この合意はムラー・ムハメッド・オマル(Mullah Mohammed Omar)の旗下の4つの主要なパキスタンの軍閥を再結集させます。イスラマバードの専門家は、この合意が二重の目的がある戦術的な動きだと言いました。タリバンは大勢の戦士を米軍のアフガン南部の拠点への2年間の増派で失いました。パキスタンの武装勢力も2009年から2011年までのパキスタン軍との戦いで、統一された指揮系統のない数十の派閥に分裂しました。この合意は10月から行われているパキスタン政府との個別交渉と同時期に起こりました。合意により、オマルはタリバンを補強でき、アフガンを攻撃するために越境する自由を与えます。
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ファレル教授の見解はよく分かりません。タリバンは元々、政治組織として認められたがっており、連絡事務所の設置は当然のことです。南東部での米軍主導の軍事活動は、主に夜襲による成果です。もともと、NATO軍はカンダハルを占領したがっていたのですが、その話は聞かれなくなり、いつの間にか夜襲に戦術が切り替えられていました。昼間の攻撃は犠牲者が多いため、撤退が決まった現在、軍の士気を停滞させる恐れがあります。そこで、発砲する機会が少なくて済む夜襲に切り替えたのではないかと私は考えています。
一方で、アフガンのタリバンを増強するためにパキスタンのタリバンが再結集するという話です。これでは、戦果があがっているとは思えません。敵は再編成を終えて、パキスタン軍が警備しているはずの国境線を越えてくるというわけですから、むしろ、パキスタン軍とタリバンの間に密約ができたのではないかとも思えます。
農業指導で農民が大麻を生産しなくて済むようにして、タリバンを経済的に追い詰めるという話は聞かれなくなりました。むしろ、タリバンは存続が決定的になってきました。大きな戦略の転換ですが、報道もそれを大きく取り上げることなく、黙っているばかりです。こうして、戦略の転換は意識されず、当初からそうだったかのように認識されるようになり、誰も責任を取ることがありません。
小泉政権期にテレビ番組で対テロ戦への参加を主張していたコメンテーターたちは、こういう妥協するアメリカに異議を唱えることはありません。彼らは戦略家ではなく、風見鶏なのです。
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