沖縄で死亡した空軍兵の横顔
military.comによると、沖縄のキャンプ・ハンセンに墜落したヘリコプターで死亡した空軍兵は、アフガニスタン戦で最も偶像視された戦闘写真に撮られた、受勲経験のある古参兵でした。
アフガンに2回派遣された第33救難飛行隊の航空機関士、マーク・A・スミス技術軍曹(Tech. Sgt. Mark A. Smith)は、8月5日に、HH-60G「ペイブホーク」がキャンプ・ハンセンの海兵隊基地の中央訓練エリアで、訓練任務中に墜落した時に死亡しました。嘉手納空軍基地の第18航空団のヘリコプターに同乗していた他3人の空軍兵は負傷し、容体は安定しています。
この墜落は米軍の駐留と上空通過に対する島内の別の反対とデモンストレーションを誘発し、普天間海兵隊基地の14機のMV-22「オスプレイ」に10機を追加する配備を遅らせました。
「スミスは完璧なプロで、本物の戦士でした」と、第33救難飛行隊指揮官、ペドロ・オルティス中佐(Lt. Col. Pedro Ortiz)は言いました。「彼は模範を示し、30歳という年齢以上に賢明でした。戦闘の最中やその他の時、私は彼を兄弟と呼ぶことに誇りを感じます。カルフォルニア州、ベーカーズフィールドのスミスは、妻のジェシカ(Jessica)と娘2人がいました。
2000年7月に高校から空軍に入隊したスミスは、航空機の外では物静かな男でしたが、機内では完全に別の人物になったと、オルティス中佐は言いました。「機内では、彼は率直で、ありのままに物事を話しました。私はそれが好きでした。彼が常に行う活動は、他者を助け、戦闘で全員を保護しました」と、オルティス中佐は第18航空団の報告書で言いました。
スミスは数え切れない救出任務につきましたが、「傑出するのはカムデッシュ(Kamdesh)のコマンド救出だったと言いました」とオルティス中佐は言いました。「彼らはPRGと重機関銃で撃たれていました。スミスは脅威が間近に差し迫っていたのにも関わらず、ホイストのところで落ち着いていました」。
2012年4月13日、スミスは山岳地帯のカムディッシュと東部ヌリスタン州(Nuristan province)の僻地で、アフガン軍と米特殊作戦軍の兵士たちを救出しに来たHH-60に搭乗していました。クレイ・ワイズ海軍公報2等技術兵(Navy Mass Communication Specialist 2nd Class Clay Weis)が撮影した救出活動の写真は以後。救難部門の中に広まりました。スミスはHH-60のハッチに見え、負傷した特主部隊員を救助するために、空挺兵2人を降ろすホイストを操作しています。
銃火の中での活動により、昨年、スミスは第18航空団指揮官マット・モロイ准将(Brig. Gen. Matt Molloy)から空軍称揚賞(the Air Force Commendation Medal)を授けられました。
カムディッシュ村近くの救出活動の現場は、2009年10月9日にタリバンの攻撃を撃退する中で米軍8人が殺され、22人が負傷した、元米軍戦闘外哨キーティング(Keating)の場所でもあります。今年2月、オバマ大統領はキーティングの戦いでの行動により、クリントン・ロメシャ陸軍2等軍曹(Army Staff Sgt. Clinton Romesha)に名誉勲章を授け、8月26日には別の生存者、タイ・カーター2等軍曹(Staff Sgt. Ty Carter)に名誉勲章を与える予定です。
第18航空団指揮官、ジェームズ・ヘッカー准将(Brig. Gen. James Hecker)はスミスを讃え、「チーム・カデナは英雄を失いました。我らの心はスミスの家族と友人、彼を愛する者と共にあります。我らすべては貴重な人物一人を失ったことを耐え忍んでいます」と言いました。
空軍は墜落に関する大まかな情報とHH-60が参加していた訓練任務の性質だけを公表しました。初期の空軍の報告は、生存した3人の乗員は航空機から脱出したことを示唆しました。嘉手納からの電子メールの声明で、第18航空団公報のジョナサン・リレイ中佐(Lt. Col. Jonathan Riley)は、HH-60には脱出システムがないため、乗員は脱出できなかったと言いました。
記事は一部を紹介しました。
記事中に書かれているスミスの写真は、記事に掲載されているのでご覧下さい。
事故の原因については、空軍からの情報も矛盾している状態なので、この記事からは分かりません。乗員が脱出できたのかどうかについてすら、はっきりしないのです。
しかし、偶像視される兵士が死亡していたことが明らかになったことは、沖縄にとっては、痛手です。米空軍の関心はスミスの死を悼むことに注がれ、沖縄県民の気持ちなど目に入らなくなるからです。その点で、この記事は重要です。死んだ兵士の軍歴が、沖縄が求めるオスプレイの飛行制限にも関係するからです。
キーティングの戦いは当サイトでも紹介しました(関連記事はこちら)。この戦いはアフガン戦の中でも最も激戦だったものの一つで、この名前が出てくること自体、スミスが救難部隊の間でどう見られたいたかが分かるというものです。
沖縄県としては、スミスの死に対して十分に弔意を示した上で、オスプレイ問題との関連を主張していくべきです。死者に対して、まったく共感を持たないのでは、米空軍も聞く耳を持つべきでないと感じます。しかし、沖縄としては安全性に疑問が残る以上、退くわけにもいかないのは間違いないのです。沖縄県がこうした情報をしっかりと受け止め、適切に対応することを望みます。
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