『風立ちぬ』喫煙シーンへの警告は正当
アニメ『風立ちぬ』に関して、喫煙シーンの問題が取り上げられ、その後も余波が続いています。この展開には正直、ガッカリさせられました。ここではあえて軍事から離れて、劇映画の話をします。
誰もがあまりにもメディア純粋主義者なのには驚かされました。そして、筋違いの議論が、本来、話されるべき問題を覆い隠しています。
発端はj-cast.comの「『風立ちぬの喫煙シーンは条約違反だ!』 日本禁煙学会の苦言に批判殺到」でした。「日本禁煙学会」が出した「喫煙シーンが多すぎる」という要望書に批判が殺到しているという記事です。(要望書はこちら)
記事の主要部分をあげてみましょう。
脳科学者の茂木健一郎氏が「禁煙を推進したい人は、自身で広報活動、Public Relationsに精を出せばよい。誰もそれを止めない。しかし、他人が作った映画の表現、違う時代の場面の描写にまで口を出す権利があると思うのは、勘違い。禁煙ファシズムだと言われても仕方がない」とツイッターで発言。その他、インターネット上で「表現活動の中でタバコを取り上げることを、タバコ規制枠組条約で禁止されている『宣伝・販売促進活動』とするのは無理があると思う」「私も煙草は嫌いだが、この要望は自ら頭の悪さを広言するようなものだから、撤回した方が良い」「こんなのがまかり通ったら、白黒映画時代からの名作映画は全く見れなくなってしまう」「この理屈だと時代劇で切腹はアカンとかそんな話になるのでは」などの意見が紹介されていきます。
これらの主張は、いずれも根拠が薄弱です。脳学者を名乗る人が喫煙を擁護する方にこそ疑問があります。劇映画に対する批判を不当と言うのも間違っています。アニメ映画は青少年への影響が大きいからこそ出た苦言であることは、文面から容易に理解できます。「『宣伝・販売促進活動』とするのは無理がある」は条約の内容を理解していない発言です。条約はそれを実現する国内法により実現されるもので、日本には喫煙シーンを作ることを禁じる法律はありません。つまり、日本禁煙学会はスタジオジブリに法律による強制を発動できる訳ではありません。国際法に言及したのは、世界的な枠組みについて、スタジオジブリに知らせるためであり、それを批判する必要はありません。「自ら頭の悪さを広言」は名誉毀損にあたる表現で、論評に値しません。「名作映画は全く見れなくなってしまう」は過去の劇映画の上映の実状を無視しています。たとえば、差別用語のような現代では不適切な台詞を含む映画を放送する場合、必ず、それに言及したテロップを表示することになっています。放送したのは差別を容認するためではなく、差別を否定することを確認した上で、原作を尊重したことを明言するのです。喫煙シーンが多い映画についても、同じことが言えます。「時代劇で切腹はアカン」は論理が飛躍しすぎた暴論に過ぎません。
日本禁煙学会の主張は正当です。学生の喫煙シーンがある、結核患者の隣でタバコを吸うシーンがあるといったことは、言うまでもなく問題なのであり、要請書を読めば、それは明らかです。
表現の自由だけが憲法で保証された権利ではありません。日本国憲法は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利も保証していますう。喫煙と受動喫煙の害はすでに証明されたことであり、それに基づいた主張が正当なのは言うまでもないことです。
劇映画の表現が、観客に悪影響を及ぼす可能性は常に考えなければならない問題です。巧妙な計画殺人を描いたミステリー映画を犯罪者が模倣することが問題だと思わない人はいないでしょう。一方で、あまりに規制・自粛すると、劇映画の魅力を損なうことも間違いがないのです。この問題は、絶えることのない疑問なのであり、上に挙げた論者たちのように、単純に割り切るべきことではありません。
その後、原爆がテーマの漫画『はだしのゲン』を松江市教育委員会が市内小中学校で閉架措置にした件が報じられると、今後は、同教育委員会への批判が殺到したという記事が報じられました。
毎日新聞の記事から閉架措置に至る経緯を見ると、「間違った歴史認識を植え付ける」という批判が市民からあり、教育委員会は内容を確認した上で、「旧日本軍がアジアの人々の首を切ったり女性への性的な乱暴シーンが小中学生には過激」という別の理由を見出し、閉架措置の決定がなされたということです。古川康徳・副教育長は「平和教育として非常に重要な教材。教員の指導で読んだり授業で使うのは問題ないが、過激なシーンを判断の付かない小中学生が自由に持ち出して見るのは不適切と判断した」と述べました。
残念ながら、記事からは、『はだしのゲン』のどの部分が間違った歴史認識だという要請があったのかは分かりません。また、教育委員会が、それとは別に暴力シーンが過激だと判断したのは、要請者が求めた判断はあたらないと考えたのかも分かりません。
なので、教育委員会内での議論がどうだったのかは分からないというのが、私の意見です。ところが、今度は閉架措置がけしからん、子供に自由に読ませろという意見が出たと報じられています。
私が驚くのは、『はだしのゲン』には主人公の父親が子供たちに暴力をはたらくシーンが非常に多いのに、それを誰も問題にしないところです。1ページ目から父親が子供に拳骨をはる場面があり、父親は何かといえば、しつけのために暴力を行使します。娘に関する件で、学校で別の生徒と教師まで殴ります。確かに、彼らは娘に悪いことをしていますが、暴力を行使すべき場面ではありません。一本気すぎて、すぐに手が出る人物が当たり前のように描かれている点は問題視されるべきです。
その他、原爆の被害を受けた人などの描写が子供に悪影響を与える恐れがある点も考慮されなければなりません。劇中の描写は、実際の原爆の被害に比べると抑制されてはいますが、子供に強い刺激を与えるレベルと判断できます。
歴史認識については、気になる部分はありますが、それは閉架措置の理由にはなりません。それこそ表現の自由に抵触する部分であり、教育委員会がそれを含んで判断したのなら批判されるべきです。
私は小学生には『はだしのゲン』は刺激が強すぎると思います。小学校では自由な貸し出しはすべきではないでしょう。中学生は保護者と一緒に読むという条件でなら貸し出して構わないと言えます。自由に読めるのは高校生以上と考えます。ただ、これも子供の成熟度により柔軟に判断するのが望ましいのであり、読んでも大丈夫と思える子供には読ませても構わないと、私は考えます。
報道では『はだしのゲン』を読むかは、子供の判断に任せるべきだという意見がほとんどのようです。これは放任が過ぎるというものです。暴力シーンが子供に与える影響を無視するべきではないことは、すでに常識となっています。当サイトでも紹介しているデーヴ・グロスマン氏の著書でも、小学生に『プライベート・ライアン』のようなリアルな戦争映画を見せることは避けるべきだと述べています。いくら優れた劇映画でも、子供に与える影響は常に大人が判断しなければならないのです。
話を元に戻します。
過去を描いた作品で、当時の風習を表すために喫煙シーンがあることは当然です。たとえば『エビータ』は、冒頭の映画館のシーンで、多くの人が喫煙しており、古い映写機が使われていることから、何の説明もせずに、観客に過去のシーンだと理解させています。これは時代を描写するために、最低限の範囲で喫煙シーンを用いているのです。
『風立ちぬ』の場合、必要以上に、当たり前のように喫煙シーンが描写されている点が問題です。そういう時代だったからといって、その通りに描写することには、演出上の意味はありません。それを関係団体が批判したとしても、それは当たり前のことなのです。
今回の件で分かったのは、日本人のメディアに対する考え方が、あまりにも古典的、原則的に過ぎることです。
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