アメリカは日本に原爆12個を投下する予定だった
thedailybeast.comによれば、アメリカの公文書は1945年8月15日に日本が降伏しなかったら、3番目により強力な原子爆弾をその数日後に投下し、それから最終的に最高12回の核攻撃を行ったことを明らかにしました。
1945年春、日本がいかなる犠牲を払っても降伏する気がないことが明らかだと考えていたため、米陸軍は攻撃する日本の都市を議論する特別攻撃目標委員会を設置しました。機密報告書は「2個の原爆の後ですら、彼らは全滅するまで、死か栄光を手に入れるまで戦い続けようとする」と付け加えました。それはイギリスのウィンストン・チャーチル首相(Prime Minister Winston Churchill)に共有される信念でした。彼は1945年7月、ポツダムでハリー・S・トルーマン(Harry S. Truman)、ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)との会談に出席しました。
「全会一致の、自動的な、疑念の余地がない合意がテーブルに載っていました」とトルーマンは後に回顧録で認めました。「我々が別の方法ですることを少しでも提案するのを私はまったく聞きませんでした」。考慮の中に原爆の数への言及はありませんでしたが、チャーチルは非公式にアメリカが決めたことに協力するよう英当局者にいうとイニシャルで仮調印しました。
大統領の科学顧問、ジェームズ・B・コーナント(James B. Conant)は「多くの軍事専門家は爆弾を大きな爆発としか見ない傾向があり、チャーチルとスターリンは同様に無知のようです」と報告しました。
攻撃目標委員会のメンバーは原爆が侵攻する必要なしに日本のインフラを破壊できると信じており、京都、広島、横浜、小倉、新潟、東京すら破壊の潜在的地域として特定されました。専門家が完全に核攻撃の影響を評価できるように、主要な基準は都市が過去に通常手段で爆撃されていないことを含みました。
東京は依然として可能性を残していましたが、それはすでに焼夷弾作戦で16平方マイルと10万人を焼いた大きな損害を出していました。その上、当局者は天皇がまだ降伏を交渉するのを助けるのに必要かも知れないと思っていました。
南の攻撃目標は可能性がある侵攻計画を促進するために優先されましたが、古都京都はそこへ新婚旅行に行ったヘンリー・スティムソン戦争省長官(Secretary of War, Henry Stimson)が重要な文化の中心地は爆撃してはならないと述べて取り下げられました。
京都は最初の攻撃に望ましかったものの、委員会は広島を爆撃する方を選びました。そこは重要な軍の補給廠で、都市環境の中にある出荷港でした。
8月6日、B-29爆撃機「エノラ・ゲイ号(the Enola Gay)」がTNT火薬12キロトンとみつもられるウラン爆弾「リトルボーイ)(Little Boy)」を広島に投下しました。3日後、別のB-29「ボックスカー(Bockscar)」が小倉に向けて離陸し、2番目のより強力なTNT火薬20キロトンのプルトニウム爆弾「ファットマン(Fat Man)」を運びました。悪天候が乗員に小倉を攻撃する元の計画を放棄して、長崎へ行くよう強いたとみられます。天候は乗員が死の荷物を配送するために雲の小さな隙間を見つける前、レーダーで爆弾を投下せよとの命令に違反することも考えるほど悪かったのです。
公文書保管人は今、小倉が主要な目標で、長崎は第二の選択だったため、長崎への攻撃はトルーマンにはショックだったことを示唆します。
両方の攻撃は20万人以上を殺しました。
公文書の記録は3番目の爆弾がエノラ・ゲイ号とボックスカー号が離陸したマリアナ諸島のテニアン島で組み立てられていて、プルトニウムのコアがアメリカから出荷されるところだったことを示します。何人かの乗員が「東京ジョー(Tokyo Joe)」と爆弾のケースの上に書かれているのを見て、これが2番目の爆弾「ファットボーイ」の元々の攻撃目標の小倉行きとされていました。
8月13日の軍事専門家2人の間の高官レベルの電話の記録は3番目の攻撃の詳細を明らかにします。それは約12個の原爆の巨大な生産ラインがその他の主要な目標に対する追加の連続攻撃のために準備されていたことも確認しました。そこで次の爆弾が8月19日に投下するために使えるようになり、さらなる爆弾は9月と10月の間に使える予定であることに同意がされました。ある米将軍は「もし我々が別の爆弾1個を準備したら、今日はそれを投下するのにいい日だ。我々がそうしなくても、なんにせよ次の10日以内に日本人が決心をするだろう」。しかし、8月15日、プルトニウムがテニアン島に送られたころ、日本が降伏したニュースが駆け抜け、その積み込みは中止されました。
記事は一部を紹介しました。
この記事には読みやすいように、少ししか公文書を直接引用していません。できれば、公文書そのものを読んでみたいと思います。しかし、内容は明確で、疑う余地はありません。
日本が実際に降伏しない限り、攻撃を緩められないという考え方は作戦を考える者が当然考えることです。残酷でもそれが戦争です。ところが、そう考えようとしない政府があります。
北朝鮮がいずれ崩壊するとの意見は十年以上前からありましたが、いまでも北朝鮮は存続しています。最近、韓国の朴槿恵大統領は来年にでも北朝鮮が崩壊するかも知れないと述べました。北朝鮮から高官の亡命が相次いでいるためです。もしかすると、いよいよその時が近づいたのかも知れません。日本にとって、北朝鮮の崩壊は拉致被害者を取り戻すための絶好の機会です。従って、北朝鮮の崩壊を促すのが日本の最善の戦略です。ところが、日本政府は率先して北朝鮮に資金を送り、延命を助けてきました。海外支援のリストを見ると、北朝鮮に送られた資金の多さに驚かされます。これは誤った戦略です。
相手が明白に降伏するまでは手を緩めるなという発想は、日本軍の徹底した戦い方からしてあり得ました。そうなると戦争は年を越してしまいます。
さらに戦後のソ連との外交を考えても、原爆の力を見せつける方がアメリカにとって有利です。
いずれが優先したのかは判断しにくいところです。米政界から米軍の間に様々な意見があり、どれが最も影響したのかが分かりにくいからです。なんにせよ開発が完了した原爆を使った方がよいとの判断が働いたのは間違いがありません。
こういう恐ろしい判断が正しく見えるのが戦争の残虐なところです。ここを皆さんに忘れないで欲しいところです。戦争学者クラウゼビッツが述べたように「戦争は暴力行為であり、暴力は特別な理由がない限り極限に達する」のです。従って、我々は孫子が述べたとおり「戦争は危急存亡の地であり、察せざるべからす」なのです。
原爆を12個も落とすつもりだったのかと驚くかも知れませんが、これは日本の主要都市の数から出たものでしょう。すべての大都市に原爆を落としても日本が降伏しないと考えるのは流石に困難です。ならば、それだけの数の原爆を用意しろという話になるのが戦争なのです。
私は安倍首相が締まりのない顔で集団的自衛権を論じることに強い抵抗を感じます。それは彼の主張が戦争の実態にまるで合っていないと感じるからです。辻元清美衆議院議員によると、集団的自衛権行使で自衛官のリスクが増えることを国会で質問した時、安倍首相は「大げさなんだよ」とヤジを飛ばしたといいます。逆に、彼に原爆12個を用意しようと考えるような厳しい判断ができるのでしょうか?。そうは思えません。
結果として、日本は2発の原爆を体験することになりました。これは重く受け止めなければなりません。原爆は大きな後遺症を残す兵器であり、民間人を殺傷することを狙った従来とは異なる兵器であり、今後、これが当たり前に使用されるようになると戦争の様相は一変します。それをさせないために、日本は原爆の脅威を訴え続けていく必要があります。それはむしろ、我々のためというよりは世界のためです。止めるわけにはいきませんし、方向性も誤ってはならないのです。
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