アメリカから見たヒロシマとナガサキ

2015.8.7


 military.comが広島に原爆を投下した搭乗員に関する記事を掲載しました。大半の搭乗員は原爆投下を正しかったと言っているので、そうではない部分だけを紹介します。

 エノラ・ゲイ号の副操縦士、ロバート・A・ルイス大尉(Capt. Robert A. Lewis)は原子爆弾の爆発を見て、戦争省の書式の裏面に走り書きしました。「もし私が百年生きるなら、私はこの数分間を決して私の心から取り出しません。この機の誰もが何か激しいものを予想したとしても、実際に唖然としてショックを受けています」「私は率直にこれを説明するために言葉を手探りで探す感覚を覚え、あるいは、何て事だ、我々は何をした?と言うかも知れません」。

 セオドア・"ダッチ"・ヴァン・カーク大尉(Capt. Theodore "Dutch" Van Kirk)は後に「私は率直に、原子爆弾の仕様は長い目で見ると命を救ったと思いますが、誰もこんな光景を再び見る必要がないように祈ります。このような恐ろしい無駄、こんな命の犠牲は」。

 乗員は爆弾が再び使われることがないよう望みましたが、3日後、8月9日、B-29「ボックスカー(Bockscar)」がもう一つの原子爆弾を長崎市に落としました。

 陸軍航空隊ジェイコブ・ビセア少尉(2nd Lt. Jacob Beser)は両方の爆発を見た唯一の人です。彼はエノラ・ゲイ号でレーダー士を務め、ボックスカー号でも同じ任務を行いました。ビセアは後に「いいえ、私は私が演じた小さな役割の何に対しても、悲しみや後悔を感じません。私が考えることは狂っているでしょう。私は真珠湾と日本人の残虐さを憶えています」「私はこのすべてがもたらした我が国へのショックを覚えています。私は道徳に関するいかなる議論も聞きたくありません。戦争は、もともと、不道徳です」。


 記事は一部を紹介しました。

 アメリカ人でも歴史家が原爆について語ると、原爆は終戦の時期へ影響しなかったといいますが、一般のアメリカ人で、特に当時軍隊にいた人たちは原爆のお陰で死なずに済んだという意見を持っています。日本上陸作戦の準備をやっていた人は、お陰で作戦が中止になり、命が助かったと考えています。

 原爆投下を決断したトルーマン大統領はその後、大学で講演すると、原爆投下はやり過ぎだとの批判を受けることがあり、その度に正当性を強調しました。

 それぞれの立場で、結論が同じだったり違ったりしますが、その理由は実際のところ様々です。

 原爆を投下機の搭乗員の多くが肯定的なのは空軍らしいことです。機械を操作して作戦を行うことが多い空軍は、兵器の射程が長いこともあり、相手を殺しているとの実感を持ちにくいのです。これが目の前で相手を殺す陸軍の兵士だとまったく違ったことを考えます。日本人からは冷酷に見えるかもしれませんが、空軍の意識とはそういうものです。

 一方、真珠湾作戦と原爆投下を比較すれば、真珠湾作戦は軍事基地に対する攻撃であり、軍事目標主義という交戦のルールを守った戦いだったといえます。基地の中には民間人もいましたが、日本軍としては攻撃目標は艦船や飛行場でした。

 それに対すると、2回の原爆投下はどちらも民間人が多い都市を攻撃したものであり、まったく交戦ルールを守っていないといえます。こんなことが決断されたのは、誰もが早く戦争が終わって欲しいと思うほど、戦いが長期しており、究極的な都市爆撃をやったところで批判する者がいないと考えたからです。絶対的な戦力の差を見せつけることで、戦後のソ連との交渉も優位になるとの見方もありました。

 このように戦争におけるモラルはごく簡単に崩壊し、劣化するものです。戦争を研究するほどに、このことには自信が持てなくなります。いつ人々がルールを放棄しようとするか予測がつきません。この点でビセア少尉の見解は間違っています。戦争はもともと不道徳なのではなく、人間がそうするのです。ごく短期間の戦闘なら、ルール違反を少なく終わらせる可能性はあるのです。2003年に米軍がイラクに侵攻すると、狙撃部隊は武装勢力と無関係なイラク人を銃殺して武装勢力にみせかけ、自分の手柄にするというインチキな行為を始めました。同時多発テロによって高まったイスラム教徒への憎しみがこうした行為を正当化したのです。

 最近、自民党の武藤貴也衆議院議員がツィッターで「SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は『だって戦争に行きたくないじゃん』という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ」と発言し、さらに武藤は「世界各国が平和を願って努力する現代において、日本だけがそれに関わらない利己的態度をとり続けることは国家の責任放棄だ」「世界中が助け合って平和を構築しようと努力している中に参加することは、もはや日本に課せられた義務であり、正義の要請だと私は考える」などと発言しています。よくもまあ、こんなのほほんとした戦争観を持てるものだと、私は呆れています。この人は戦争のルールが簡単な理由で破られることすら分かっていません。

 被害側に反撃のチャンスがない場合、加害側から凄惨なルール破りが行われることを考えたら、自国がそういう立場に置かれないような戦略立案。ルールを破りにくいようにする国際環境の構築こそ、目が向けられていない、検討すべき問題です。日本が欲しいのはそういう政治家なのです。

 


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