硫黄島の新説の信憑性は高い

2016.5.5


 昨日紹介した硫黄島の星条旗の写真について、発端となったオマハ・ワールド・ヘラルドの記事を要旨だけまとめて紹介します(記事はこちら)。

 記事には写真や動画も載っており、写真の一部はマウスカーソルを合わせると拡大表示されます。

 写真の中でジョン・ブラッドリー(John Bradley)は折り返しがないズボンを履いています。ズボンは彼の靴の上に垂れています。ブラッドレーが見える他の写真では、それらは折り返されています。彼のズボンの下に靴とレギンスを見ることができます。

 ブラッドレーは国旗を掲揚するのを助ける前にズボンを折り返しておらず、その後で折り返したのかも知れません。

 しかし、写真にはヘルメットの下に帽子のひさしがありますが、他のすべての写真で、帽子は見えません。

 国旗のまわりに集まった海兵隊員18人と海軍衛生下士官のグループを示した、ローゼンソールの有名な「ガン・ホー」写真で、ブラッドレーはヘルメットを空に掲げ、ヘルメットの内部を見せていますが、ヘルメットの中にも頭部にも帽子はありません。

 彼は帽子を地面に落としたのかも知れません。

 しかし、ベルトは標準的な海兵隊の弾薬帯のように見えます。M-1小銃の弾薬を入れるはずの弾薬ポーチが見えます。ベルトからワイヤーカッターが2個ぶら下がっているのが見えます。

 衛生下士官の制服は弾薬帯ではなく拳銃用ベルトを含みます。M-1小銃ではなく、拳銃を携帯するはずです。ワイヤーカッターも必要ありません。

 この日の他のブラッドレーの写真では、彼は拳銃用ベルトを身につけています。

 弾薬ポーチやワイヤーカッターは他のどの写真にも見えません。

 この写真に関しては報道が混乱し、1945年3月にルーズベルト大統領は混乱を片付けることを望み、海兵隊に国旗を掲揚した海兵隊員を特定し、生存者を本土へ戻すよう命じました。大統領は彼らを戦時公債を売るのを手伝うことを望みました。

 第5師団E中隊の伝令兵、レイニー・ギャグノン上等兵(Pfc. Rene Gagnon)は擂鉢山に国旗を運び、ローゼンソールの写真に現れたことが知られていました。

 海兵隊の高官が彼の元へ行き、一見単純な質問をしました。「国旗を揚げるのを手伝ったのは誰だ?」。

 ギャグノンは4つの名前を答えました。写真の直後に負傷したジョン・ブラッドリー。フランクリン・スースリー(Franklin Sousley)、マイケル・ストランク(Michael Strank)、撮影の数日後に戦死したヘンリー・ハンク・ハンセン(Henry "Hank" Hansen)。

 ギャグノンは故意にアイラ・ヘイズ上等兵(Pfc. Ira Hayes)の名前を言いませんでした。ヘイズは写真の中にいましたが、彼は有名になることや戦時公債の活動に行く気はないとギャグノンに言っていました。

 海兵隊当局とヘイズ自身が後に出した声明によると、ヘイズは名前を出したら痛めつけるとギャグノンを脅していました。

 ギャグノンは別の間違いをしており、旗竿の根元に立っていた海兵隊員を誤って特定しました。彼はそれがハンク・ハンセンだと海兵隊に話しました。ギャグノンとブラッドレーはハンセンが写真に写っていたと宣誓供述書に署名しました。

 ハンセンの母親は何ヶ月も戦時公債ツアーに参加しました。

 1946年、硫黄島で戦死したハーロン・ブロックの家族は、写真の中にいるのはハンセンではなくブロックだというアイラ・ヘイズのメモを含んだ手紙を議員に送りました。

 1年以内に海兵隊はこの論争を調べるために調査を開始しました。

 ブラッドレーとギャグノンは新しい宣誓供述書に署名し、1974年1月、調査委員会は結論を出しました。

 6人目の国旗掲揚者はハーロン・ブロックでした。

 ハンセンの家族は証拠の開示を要求し、海兵隊は拒否しました。

 以来、海兵隊は国旗掲揚写真に6人の名前をつけました。ギャグノン、ブラッドレー、ヘイズ、スースリー、ストランク、ブロック。

 70年間近く、海兵隊は調査の最終的結論を確信し、2度目の国旗掲揚の6人の身元を疑う理由はありません」と海兵隊戦史部はいいます。

 1947年にギャグノンは記者に質問され、「誰もはっきりとは知りません」と答えました。

 スティーブン・フォーリー(Stephen Foley)はブラッドレーと特定された男は実際にはフランクリン・スースリー上等兵だと信じます。

 今までずっと、スースリーは右から3番目、ブラッドレーの左横の男だと信じられていました。

 フォーリーは数人の歴史家と著述家にこの件を電子メールで送りましたが、返答がありませんでした。

 フォーリーは第5師団のウェブサイトを運営するエリック・クレリ(Eric Krelle)に電子メールを送りました。

 クレリは調査を開始し、同じ結論に達しました。

 この結論はもう一つの謎を生みます。

 ジョン・ブラッドレーが写真の中におらず、スースリーがブラッドレーの場所に立っていたなら、スースリーの場所に立っているのは誰ですか?。

 クレリは第2次大戦の海兵隊の記念品の厖大なコレクションを持っていました。

 国旗掲揚の撮影場面の映画フィルムを調べ始めた時、このコレクションが重要になりました。

 彼はあることに気がつきました。

 国旗を揚げた直後、謎の男が国旗から離れ、身を屈めると、旗の方へ歩いて戻ります。

 彼がこうする時、彼の頭部の左側が短時間見えるようになります。

 謎の男のヘルメットの左側に何かがぶら下がっているのが見えます。

 それは紐のようで、拡大すると、バックルのかすかな輪郭を見ることができました。

 擂鉢山の頂上で撮影された写真に、彼はヘルメットの左側に何かをぶら下げた海兵隊員を見つけました。

 他の誰も、ヘルメットの左側に物をぶら下げていませんでした。

 彼は同じ男の別の写真も見つけました。彼はいくつかの写真で特定され、大きな鼻で特定が可能でした。

 謎の男はヘルメットの左側に何かをぶら下げていました。

 彼は第3、第4の写真を見つけました。

 この海兵隊員が擂鉢山の写真に撮られる度に、彼はヘルメットの左側に吊した何かを持っていました。

 クレリは第2次大戦中の海兵隊のヘルメットをコレクションから取り出して調べました。

 第2のストラップがヘルメットの上にあります。インナー・ライニングを鉄製のカバーにつける薄い革のストラップがヘルメット前方にあります。

 クレリはヘルメットの左側にストラップを吊した男の見出し付きの写真をクリックしました。

 彼の名前はハロルド・H・シュルツ上等兵(Harold H. Schultz)でした。

 歴史家たちはこの発見を無視しました。

 映画製作者のダスティン・スペンス(Dustin Spence)は納得できないと言いました。

 その日に撮影されたブラッドレーの他の写真と有名な写真の中のブラッドレーと考えられる姿には、ベルトから吊された2つのポーチの位置を含めて多くの類似点があると、彼は言います。

 ズボンの折り返しとヘルメットのライナーの有無のような証拠は海兵隊の歴史が確立した70年間を越えるには十分ではないとスペンスは言いました。

 「最初の旗が午前10時20分に揚がり、二番目の旗が午後12時30分まで揚がらなかったことを考えると、2時間の間にブラッドレーがズボンの折り返しを変えられました」。

 クレイトン大学のヒース・フライ(Heather Fryer)は補強証拠が必要だと言いました。

 ブラッドレーの戦時中の手紙の中やその他の文書の中に手がかりが隠れているかも知れません。

 「しかし、これは非常に魅力的です」「少なくとも、提示され続ける必要がある疑問です」。

 同じ大学のウィリアム・シェラード(William Sherrard)はさらに懐疑的です。

 小さなストラップをヘルメットから吊しているすべての海兵隊員を排除しましたか?。

 シュルツが本当に古今で最も有名な写真の一人なら、誰も過去70年間に気が付かなかったのでしょうか?。

 シュルツは誰かに言わなかったのでしょうか?。

 「非常に魅力的ですが、証拠とは呼べません」。

 「写真は言わせたいものを言うようにさせることができます」。

 「シュルツの家族を見つけたら教えてください」。

 「それは魅力的です」。

 シュルツの捜索は難航し、長くかかりました。

 謎の男は不可解な人生を送りました。

 有名な写真を撮影した数週間後に硫黄島で負傷し、シュルツはアメリカへ戻り、海兵隊を名誉除隊してロスアンゼルスへ引っ越しました。

 彼は全経歴を米国郵政公社で働きました。

 恐らくはシュルツが太平洋で戦っている間に、十代の婚約者が死んだ後、彼は成人後の人生の大半を独身で過ごし、誰の子供の父親にもなりませんでした。

 彼は60代になって、リタ・レイズ・シュルツ(Rita Reyes Schultz)と結婚しました。

 彼女にはデズリーン(Dezreen)を含めた前の結婚での子供が数人いました。

 シュルツは親切で、静かで、大戦での経験についてはほとんど話しませんでした。

 デズリーンは彼に質問を試みました。

 シュルツは彼女に早く海兵隊に入るために年齢をごまかしたと言いました。

 彼は彼女に帰国について話しました。

 彼は硫黄島や擂鉢山の写真については一言も漏らしませんでした。

 彼はデズリーンが知る限り、数少ない友人と近親者に見守られ、1995年に死亡しました。

 彼女の母親が死んだ後、デズリーンは家を掃除するのを手伝いました。

 そして、マニラ封筒を見つけました。

 シュルツの除隊書類があります。

 シュルツが出席したらしい、海兵隊の硫黄島帰還兵の40周年記念親睦会のプログラムがあります。

 擂鉢山の頂上で撮影された写真のコピーがあります。

 それは有名な「ガン・ホー」写真です。

 写真には下に撮影した男の署名があります。ジョー・ローゼンソール(Joe Rosenthal)。

 写真の裏に、不明瞭な青いインクで、シュルツは「ガン・ホー」写真の男18人の名前を、左から右へ書いていました。

 アイラ・ヘイズ上等兵。左から3番目にハロルド・シュライアー中尉(First Lieutenant Harold Schrier)。スースリー。ストランク。ブラッドリー。右から5番目に、彼は自身の名前「ハロルド・H・シュルツ上等兵」を書きます。

 もう一つのアイテムがこの封筒の中にあります。国旗掲揚の写真です。

 シュルツが有名な国旗掲揚の写真のコピーを死ぬまで持っていた事実は何を意味するのでしょう。

 写真の裏は空白です。

 シュルツは硫黄島の国旗掲揚に関する長きにわたる謎を解いていません。


 概略部分だけの訳なので、詳しく読みたい人は原文を読んでください。

 記事の写真と動画を穴が空くほど見ましたが、新説に疑いを差し挟む余地はないように思われました。

 特に、2番目の国旗掲揚の後で撮影された集合写真で、後ろの列にいるブラッドレーは、はっきり見えないものの、医薬品の装備を肩から下げているらしく、ストラップが見えます。国旗掲揚の写真では、この装備を身につけていません。旗を揚げるときに装備を外し、掲揚後にまた身につけた可能性はありますが、あまりありそうにないことです。

 シュルツの特定に関しては、ストラップはどのヘルメットにもついているので、これだけで結論を出すのは難しいですが、議論する価値はないと考えるのは真実に対して傲慢な態度というものです。

 しかし、この時に頂上まで行った者は限られており、彼らの多くが写真に収まっていることから、特定を不可能と決めつけるべきではありません。

 丁寧な調査をするのなら、オリジナルの写真と動画をデジタル技術で復元し、コマ単位で、さらに詳細な人物照合をすべきでしょうね。

 もしかすると、ニュース映像は編集されていて、つながっていないと思われた部分が存在するかも知れません。念のために、オリジナルのフィルムを改めて調べる必要があると思います。

 こうした問題が起きたのは、なによりも、現場の兵士にとって、国旗を揚げたのが誰かは大した問題ではなかったためでしょう。こういう写真が重要なのは往々にして、「銃後の人々」だけなのです。

 


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