稲田朋美が防衛大臣に相応しくないこれだけの理由
安倍首相が防衛大臣に稲田朋美政調会長を任命するとの報道が昨日ありました。
これは衝撃です。稲田は空想的防衛論の信者で、防衛大臣にはまったく不向きです。この人を政治家にしたのは安倍晋三ですから、二人の考え方はほとんど一致していると考えてよいでしょう。
もともと法律家で、そこから東京裁判などに関心を持ったところからスタートしているので、まともに軍事を勉強する前に自由主義史観に染まってしまい、後戻りできなくなっているため、軍事的判断をする能力には強い疑問があります。
本人は強い正義感から東京裁判で認定された事実を否定したいのでしょうが、この人が言わなくても東京裁判の問題点は様々に指摘されています。東京裁判史観なるものが日本に蔓延していて、それを正すのが政治家になった目標となっています。
しかし、国民の多くは東京裁判史観に染まっているのではなく、歴史に興味がないだけです。これはどこの国でも見られる光景です。歴史好きの若者は、多分、音楽やスポーツを愛好する若者よりも少ないでしょう。単にそれだけの話です。
一口で言うと、軍事を勉強せずに東京裁判への不満で考察が止まっているだけの人なので、柔軟な発想による防衛への貢献はまったく期待できません。
「世の中の不正義に気がついてしまった」と思い込んでいるだけの人なので、防衛大臣としてどんな問題を引き起こすか、本当に心配です。
その最たるものが、稲田が宗教団体「成長の家」の創始者、谷口雅春の熱狂的な信者であるということです。「特集・一周年記念第6回東京靖国一日見真会」という記事の冒頭で、稲田は次のように述べています。
私は谷口雅春先生の教えを、ずっと自分の生き方の根本において参りました。今日、ボロボロになった昭和13年発行の『生命の實相』の本を持って参りましたが、これは私の母方の祖母が読んでいた本で、昭和8年生まれの母も読んでいたのです。
1941年発行の『谷口雅春選集』(潮文閣 p302〜303)で谷口は、天皇の命令で肉体を捨て、肉弾となって戦うことを説いており、戦争は人類の霊魂進化のための最高の宗教行事だと主張しています。
私は『大自然が催し、大自然がはかろうて自分をその境遇にまで追い寄せた現在の生活』を百パーセント完全に生きることが、生長の家の生き方であるといった。この意味において『戦争』というものが吾々に課せられた場合には(現に課せられているのであるが)それを完全に戦い抜くことが生長の家の生き方でなければならないのである。今与えられた環境から飛出すところの出家道は、否応の選択が働くのであるから、戦争というものは魂の修養にならないというような価値判断がはたらいて、戦争忌避や、敗戦主義に捉えられるおそれがあるが、生長の家では出征する人にとっては戦場が直に魂の修養の道場となり、戦争が直に吾々の魂を練るところの公案となるのである。多くの人たちは戦争の悲惨な方面ばかり見ていて、その道徳的、宗教的意義を理解しない。そして動もすれば戦争を忌避するのであるが、戦争は実に真剣な、否応なしに左右をいわずに、ただひたすらに至上命令に従うところの激しき宗教的行事なのである。しかも同時に、肉体の『無』を理屈でなしに実証するところの行事である。かの天華の修行に天華の教祖渡辺薫美が修行者たる一婦人に課したところの『千仭の谷へ、今跳べ!』の必至命令の如く、否やの選択を許さぬ絶対命令と同じことである。『爆弾を抱いて、そのまま敵のトーチカに跳び込め!』これに対して、軍人はただ『ハイ』と答えて跳び込むのである。宗教の修行においては、たとひ教祖の命令通り跳び込まなくとも、『修行が足りない、まだ心境がそこまで達していない』位で許されるだけに、それは修行の『型』をやっているだけである。また、その命令者が教祖という個人である。しかし戦争においては否応はない、言葉通り肉体の生命が放棄せられる。そして軍隊の命令者は天皇であって、肉体の放棄と共に天皇の大御命令に帰一するのである。肉体の無と、大生命への帰一とが、同時に完全融合して行われるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。戦争が地上に時として出て来るのは地上に生れた霊魂進化の一過程として、それが戦地に赴くべき勇士たちにとっては耐え得られるところの最高の宗教的行事であるからだと観じられる。
軍事を知る者としては、こんな主張は戯れ言に過ぎません。
兵士が死ぬことは損害であり、損害をより多く出した方が戦争に負けることを考えたら、そこに宗教的な意味合いをすり込む余地はないからです。死ぬことが目標の軍事行動はあり得ません。実際、第2次世界大戦では、そうやって戦争に負けているのですから。
谷口は天皇に従い、命を捨てて戦うことを繰り返し著書の中で述べていますう。つまり、命を生け贄のようにして祭壇に捧げよと主張しているのです。個人はそもそも存在しないとも主張します。
こういう人が防衛大臣をやれば、自衛官を戦地に送り込み、そこで戦死させることは、自衛官の霊魂を進化させるための最高の宗教行事を体験させることであり、それは自衛官のためになると考えるはずです。自衛官を殺せば殺すほど、神様が霊魂進化というご褒美を下さるという構造です。
到底正気とは思えません。
なお、現在の成長の家は創始者の死をきっかけに平和を主眼とした教えに変化しており、先の参院議員選挙でも与党議員を支持しないとの声明を出しています(公式サイトはこちら)。 つまり、現在の成長の家が支持しないような考え方を、稲田は信じ続けているのです。それも、子供の頃に家にあった本に書いてあるからという理由でです。
他にもおかしな発言がいくつもありますが、軍事に関係するものをひろいあげてみましょう。
「教育体験のような形で、若者全員に一度は自衛隊に触れてもらう制度はどうか」「『草食系』といわれる今の男子たちも背筋がビシッとするかもしれない」
これは自衛隊の基地祭などを見学して、自衛隊に興奮を憶えてしまった、萌え系の自衛隊ファンが抱く浅はかな考えです。
若者に特定の体験を義務づけている国はあります。たとえば、タイでは男子は必ず一定期間、仏教の修行をすることを義務づけられていると聞きます。
しかし、自衛隊を短期間体験させたところで効果は期待できません。なにより重要なのは、その業務のために自衛隊本来の業務ができなくなり、結果的に自衛隊の戦力を低下させてしまうことです。
平成25年の統計を見ると、18歳男子の人口は約62万人でした(総務省統計局)。これだけの人数を自衛隊が短期間でも受け入れるのは、自衛隊の規模からいって不可能です。基地祭に行くと、制服を着た自衛官があちこちに見えるから可能だと思ってしまうのです。こんな簡単な問題に気がつかない人が防衛を語るなといいたい。
「日本独自の核保有を、単なる議論や精神論ではなく国家戦略として検討すべき」
核武装の議論が「単なる議論」「精神論」で語られてきたとは、一体何を指すのかがそもそも不明です。国家戦略として語られてきたとしか記憶しません。
核武装は日本の国家戦略という視点でだけで考えることはできないのです。核不拡散条約(NPT)との兼ね合いをまず考えないといけません(外務省の解説はこちら)。
NPTは核保有国と非核保有国が条約を交わすことで、各国に核兵器開発への動機を減らして、核戦争の危機を回避するのが目的です。通常兵器のように、各国が自由に開発できる環境では、核兵器が世界に蔓延することになります。
日本は非核兵器保有国として、第2条により核兵器の開発を禁じられています。
第二条 [非核兵器国の拡散回避義務]
締約国である各非核兵器国は、核兵器その他の核爆発装置又はその管理をいかなる者からも直接又は間接に受領しないこと、核兵器その他の核爆発装置を製造せず又はその他の方法によって取得しないこと及び核兵器その他の核爆発装置の製造についていかなる援助をも求めず又は受けないことを約束する。
イランはNPTに加盟しながらも核兵器を開発していると考えられています。北朝鮮はNPTを脱退して核兵器を開発しているとされます。日本もそういう国の仲間入りとするということでしょうか?。これは望ましいことですか?。
核武装をすると、原発用の核燃料を売ってもらえなくなる可能性もありますが、そういう場合はイランや北朝鮮から買うのでしょうか?。それは望ましい未来ですか?。
稲田の防衛大臣就任で、対米関係も悪化するものと思われます。もちろん、米軍は表向きは従来の関係を維持しようとするでしょうが、稲田のような人物と本音で話し合うことはありません。すでに米政府内では、彼女のプロフィールが出回り、その内容に驚愕しているはずです。
偶然ですが、同じ日に私は後藤田正晴氏の著書を読み始めたところでした。徹底したリアリストで護憲派だった後藤田氏の主張と稲田の空想的な主張は完全に食い違います。陸軍にもいた後藤田氏は「あんな軍隊でよく戦争をした」とバッサリと切り捨てています。軍隊に変な憧れを持つ者と、実際にそこにいた者の認識の違いは明白です。
自由主義史観などを信じる人たちは、ぜひとも戦争を体験した世代の回顧録を読み、自由主義史観と比較してみるべきです。
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