モスル作戦でイラク軍1600人以上が死傷
alarabiya.netによれば、イラク軍はモスルを流れるチグリス川(Tigris)からモスル西部を窺っています。
大勢のイラク軍将校は金曜日、モスルのニナーワー国際ホテルのバルコニーからチグリス川を眺めました。ちょうど3カ月前、男たちはニナーワー平野の端にある砂漠の村があつまった場所にいました。
「残されたモスル住民への我々のメッセージは、勝利が近くにあるということです」とアブドル・ガニ・アル・アサディ中将(Lt. Gen. Abdul-Ghani al-Asadi)は水曜日に街の東部の大部分が解放されたと宣言された後、祝賀ツアーの中でいいました。
イラク軍の進展は最初は止まり、モスルを概ね東半分と西半分に分ける河に近づくと、今月速度を上げました。
しかし、その勢いは持続しそうになく、街の西半分はすでに疲労した軍隊のためにより厳しい戦いになる形が整っています。
モスルの西は、より人口が密集し、街の最も古い地域があります。
国連は約750,000人がまだ街の西にいると見積もり、彼らの多くはイスラム国戦闘員が土地を失った時にチグリス川峡谷を強制的に行進させられた遠くの村の住人です。
同盟軍の地上部隊の指揮官、ジョセフ・マーティン少将(Maj. Gen. Joseph Martin)は、イラク軍に調整された攻撃を始めることでイスラム国を押し戻した、イラク軍の異なる治安部隊の間のより大きな調整で素早い進展を認めました。
「彼らは敵を複数の方向から攻撃しており、敵は反応できません」と彼はいいました。
しかし、イラク地上部隊は多くは、イスラム国の防衛を薄くし、主要な民兵指導層を捕まえることを目的にした、前線を越えた夜間の攻撃で彼らの勝利を認めます。
イラクの特殊部隊は最初、そうした襲撃を緊密な同盟軍の支援と共にファルージャ(Fallujah)において、そうした襲撃を始めました。
匿名を希望したイラク軍将校によれば、モスルでは、進展が遅れたので、同盟国部隊は夜間作戦を支援することもあり、街へより深く移動しました。
イラク軍は同じように高い犠牲者の率も経験しました。イルビル(Irbil)の病院当局とモスル市内で活動するイラク人医療要員は、モスル作戦の間にイラク兵1,600人以上が死傷したと見積もります。この数字は、戦いの初期段階で参加したペシュ・メルガ(peshmerga)として知られるクルド軍を除外します。
イラク南部、ワシト地域(Wasit)出身、37歳の特殊部隊の兵卒、シャヒル・ナジム(Sahil Najim)は、彼の中隊だけで過去3ヶ月間に30人以上が殺されたといいました。
記事の最後のナジムの証言は省略しました。
夜間攻撃でイスラム国の指揮官を捕まえたという話は、今回初めて聞きました。米軍からもらった暗視ゴーグルを使ったのでしょうか。指揮官を減らすことで、敵の動きを鈍くできます。指揮をする者がいない部隊は、戦闘意欲が下がり、戦技も質が落ち、戦術的に動かなくなります。こういう動きをイラク軍がすでに行っていたとは思いませんでした。
この記事で興味深いのは死傷者の数が1,600人以上とある程度特定されたことです。死者が3分の1として、530人程度ですから、これは一定の規模の数といえます。しかし、兵を補充することで対処は可能でしょう。
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