イージス艦衝突事故の死者に将校なし
military.comがコンテナ船と衝突したイージス艦で死亡した隊員について、家族や友人から得られた写真とインタビューを報じました。先日は、事故原因に集中して、死者について触れられなかったので、ここで取り上げます。当サイトで死亡した隊員はできるだけ紹介するようにしていますが、それは戦死という問題について人々に考えてほしいからです。彼らは単に数字だけで認識されるべきではありません。
シンゴ・アレキサンダー・ダグラス
カルフォルニア州
シンゴ・アレキサンダー・ダグラス3等下士官(Shingo Alexander Douglass)は父の先例にならい、軍の海事部門に入り、2014年に海軍に志願しました。彼は同じ年に駆逐艦に乗船して働き始め、昨年10月にコミュニティ・サービス・プロジェクトの一環で韓国の孤児院の訪問で、彼の船員仲間に参加しました。「the San Diego Union Tribune」によれば、ダグラスは車椅子に乗る障害を持った孤児を押しているのが見られました。
スティーブン・ダグラス海兵曹長(Marine Corps Master Sgt. Stephen Douglass)は、25歳の息子は熱心なテレビゲームプレイヤーで、本当にいい子だったと新聞社に話しました。
彼は5月に昇進したばかりでした。2010年のサンディエゴの北にあるハルブルック(Fallbrook)のハルブルック高校卒業生はまだ未婚でした。
彼の家族は彼を「冒険好き」といい、彼の趣味はスキューバダイビングとテニスを含むと言いました。
「シンゴは誇りを持って国家に奉仕し、我々も彼と彼の貢献を誇りに思います」と彼の家族は声明に書きました。
ノエ・エルナンデス
テキサス州
ノエ・エルナンデス2等掌砲手(Noe Hernandez)は彼の家族にとってとてつもない誇りの源だったと、親族はダラスのテレビ局「KTVT」に言いました。
「私たちはグアテマラの貧困の出身です。彼は成功した一人でした」と従兄弟のアリー・エルナンデス・シンジャー(Aly Hernandez-Singer.)は言いました。「私たちは彼の体験を、旅行を通じて生きました」。
テキサス州、ウェスラコ(Weslaco)出身の26歳のエルナンデスは、2009年に海軍に入ってから、イリノイ州、イタリア、カルフォルニア州、日本に配置されました。
彼は眠っているとき、衝突で頭部外傷により死亡したと、エルナンデス・シンジャーはテレビ局に言いました。
彼女は、エルナンデスが高校で妻と出会い、2歳の息子を残して逝ったと言いました。
グォック・T・トゥルン・ヒューン
コネチカット州
25歳のグォック・T・トゥルン・ヒューン3等ソナー技術士(Ngoc T. Truong Huynh)は、常に「最も明るい笑顔」だったと、女性の兄妹は言いました。
彼は献身的だったと、ラン・ヒューン(Lan Huynh)はコネチカット州ハートフォード(Hartford)のWVIT-TVに言い、家族は出来る限り最大に手本としています。
ヒューンは2014年に海軍に志願する前に、ウォータータウン高校(Watertown)を卒業し、ノガタック・バレー・コミュニティ大学(Naugatuck Valley)に通いました。家族は、まもなくオクラホマへ引っ越しました。
コネチカット州知事は、ヒューンの名誉に半旗を掲げるよう命じました。
ザビエル・アレック・マーティン
メリーランド州
ザビエル・アレック・マーティン1等人事技術士(Xavier Alec Martin)は艦が衝突したあと、父親に電話をしようとしましたが、通じなかったと、彼の父親はボルチモア(Baltimore)のWJZ-TVに言いました。
デロルド・マーティン(Darrold Martin)が考える事のすべては、息子の最期の瞬間です。
メリーランド州ヘールソープ(Halethorpe)出身、24歳の下士卒は、父親の先例にならい、素早く昇進したと、息子を最大の友人というデロルド・マーティンは言いました。
「とても困難です」と年長のマーティンは言いました。「彼は私の唯一の子供で、私のすべてです」。
マーティンは2010年にランズドーン高校(Landsdowne)を卒業しました。そこで彼はトラック競技をやり、沢山の友人がいたと、マーティンの叔母、ダニース・ジェフリー(Daneace Jeffrey)は言いました。
彼は軍隊の中にいるのが好きで、それをキャリアの中に変えることを考えていました。
「彼は常に自分の安全よりも他人を優先しました」と彼女は言いました。「私は最期の瞬間に、彼がおそらく自分自身よりも他の隊員をより気にかけたと確信します。彼はそんな人でした」。
ゲイリー・レオ・レーム・ジュニア
オハイオ州
37歳のゲイリー・レオ・レーム・ジュニア1等火器管制士(Gary Leo Rehm, Jr.)は死んだとき、退役まであと3ヶ月だったと、彼の従兄弟はオハイオ州、エリリア(Elyria)の「The Chronicle-Telegram」に言いました。
友人と親族はエリリア出身の下士卒は気前が良くて落ち着いていたと言いました。彼らは海軍は彼の母親に、彼は浸水した区画に閉じ込められた仲間の下士卒を救おうとして死んだと告げたといいます。
「彼が駆け込んで、他の下士卒を溺れるのから救おうとしたと聞いたとき、私たちはそれこそゲイリーだと言いました。まさしくゲイリーでした」とレームの友人、クリストファー・ガルジューロ(Christopher Garguilo)は言いました。「彼は自分のことを決して考えませんでした」。
レームは、彼が若者の頃に軍用機や艦船のツアーに連れて行った第二次大戦の海軍兵祖父から海軍に入るよう触発されました。レームはオーバーリン高校(Oberlin)を卒業した直後、1998年に志願したと彼の叔母は言いました。
「彼は彼がやったことを愛していました」とレームの叔母、ヴァージニア・レーム(Virginia Rehm)は言いました。
「彼は懸命に働いた、心の優しい、幸せな人でした。大きな損失です。本当に」。
ゲイリー・レームは妻、両親、女性の兄妹を残して逝きました」。
カイル・リグズビー
ヴァージニア州
19歳のカイル・リグズビー掌砲手(Kyle Rigsby)は、海軍に入る前に、故郷のヴァージニアでボランティアの消防士でした。
パルミラ(Palmyra)の住民で、フルバナ郡高校(Fluvanna County)の卒業生は、母親の先例にならって、2014年にレイク・モンティセロ・ボランティア消防署(Lake Monticello)に登録したとき、十代だったと、メディアは報じました。
リグズビーは「あなたのために何でもするでしょう」とボランティア消防士のファラー・ブロディ(Farrah Brody)は言いました。
ジーン・キャンベル消防副署長(Assistant Fire Chief Jean Campbell)はリグズビーを信頼おける消防士で、彼の死を「悲劇的な損失」と呼びました。
チェイス・カラカ(Chase Karaca)は、彼はリグズビーと4年生のときに出会い、ポケモンをプレイすることで仲間になったと言いました。
ゲームはリグズビーに日本文化への興味を起こさせたので、訪問する機会を得たことと国のために何かをしていることは「彼にとって夢の実現でした」とカラカは言いました。
リグズビーは2016年2月に入隊しました。彼は11月にフィッツジェラルド乗船を命じられました。
カルロス・ビクター・ガンゾン・シバヤン
カルフォルニア州
カルロス・ビクター・ガンゾン・シバヤン2等火器管制士(Carlos Victor Ganzon Sibayan)は、海軍で勤務することを「天職」と呼び、彼は高校を卒業したあと、2013年に入隊したと友人は言いました。
サンディエゴのチュラヴィスタ(Chula Vista)出身のシバヤンは、常に人々を笑わせていたと、シャパラル高校(Chaparral)の海軍少年予備役将校訓練隊(Naval Junior Reserve Officer Training Corps)で仲間の候補生だったチェイス・コーニルス(Chase Cornils)は「the San Diego Union Tribune」に言いました。
「彼は常に陽気な態度で、笑顔でした」とコーニルスは言いました。
志願した水上戦のスペシャリストは、2014年7月にUSSフィッツジェラルドに乗船して働き始めました。
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military.comによれば、USSフィッツジェラルドに乗船して死んだ下士卒7人の1人は、最後に自分の命を失う前に数十人の仲間を救ったと、「The Daily Beast」は報じました。
USSフィッツジェラルドは土曜日に、日本沖合56マイルでフィリピン船籍の商船と衝突しました。
下士卒7人が艦の浸水した区画で死体で発見されました。
「The Daily Beast」によれば、フィッツジェラルドが商船と衝突したとき、37歳の1等火器管制官、ゲイリー・レオ・レーム・ジュニアは直ちに行動しました。
オハイオ州コロンブス(Columbus)の「WBNS-10TV」によれば、フィッツジェラルドは吃水線の下をぶつけられ、レーム・ジュニアの家族は海軍から、彼が下へ行って、少なくとも下士卒20人を救ったと言われました。
しかし、彼が別の6人の下士卒を捕まえるために下へ戻ったとき、艦はあまりに多くの水を載せ始めており、ハッチは閉鎖されたと「WBNS-10TV」は言いました。
「彼は(艦の下士卒を)自分の子供と呼びました」と彼の叔父、スタンリー・レーム・ジュニア(Stanley Rehm Jr.)は「The Daily Beast」に言いました。「彼は『自分の子供が死ぬなら、私も死ぬつもりです』と言いました。
レーム・ジュニアは、艦がアメリカでドック入りすると、「彼の子供たち」をヴァージニア州の彼の家に招くことで知られていまたと、彼の叔父は言いました。「彼は必要とする人はだれでも常に助ける準備ができていました。彼はまさにそういう人でした」。
「ゲイリーは常に笑顔を絶やさない人たちの一人でした」と、USSポンス(USS Ponce)でレーム・ジュニアとともに勤務したダニエル・カール(Daniel Kahle)は「The Chronicle-Telegram」に言いました。「そういうすごい奴でした。とても大きな損失です。彼は私たちすべてが、彼がそうであると知る人々によって記憶される必要があります」。
レーム・ジュニアはすぐに退役することを考えていましたが、一日艦長を務めることも望んでいたと、彼の叔父は「The Daily Beast」に言いました。
死亡した7人の紹介と、英雄的な行動をした結果亡くなったゲイリー・レオ・レーム・ジュニアの記事を併せて紹介しました。
縁の下の力持ちみたいな人ばかりが死に、将校は一人も死んでいません。
この記事を読むだけでも、当夜、艦内では壮絶な状況があったことが想像されます。その中に将校の活躍が一つもないのが気になりますね。船長は居室で負傷して搬送されるという体たらくです。
今後も、衝突時の様子には注目していきたいと思っていますが、将校の活躍が出てくることを期待しています。
また、戦死であれ、事故死であれ、氏名は家族に通知したあとで公表するのが米軍です。昨日、北海道大演習場で起きた戦車横転事故で亡くなった隊員の氏名は公表されていません。そのために、報道機関が家族のコメントをとることもできません。
そこで、防衛省に次のような意見を送りました。
自衛隊は死亡した隊員の身元の公表について、統一した基準を設けるべきです。
昨日、北海道大演習場千歳・恵庭地区で起きた戦車横転事故で、死亡した隊員が30代の2等陸曹としか発表されていません。先日、函館で墜落した航空機の搭乗員の氏名は公表しているのにです。
この差は一体何を根拠にしているのでしょうか。
コンテナ船と衝突した米イージス艦で死亡した隊員の身元は公表されており、報道では経歴や、死ぬまでに何人もの命を救う英雄的行動を行った者も紹介されています。
今回の横転事故も、新聞報道を読んでも、事故の状況は全く把握できません。何かを隠しているようにも見えます。米軍の発表と比較すると、自衛隊の発表は民主主義国のそれとは思えないものがあります。
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