フィッツジェラルド事故:隊員はどう行動したか
military.comによれば、木曜日に米海軍が公開したUSSフィッツジェラルド(USS Fitzgerald)衝突の初期報告は、衝突後に命を救うための乗員の英雄的努力と共に隊員が体験した恐怖を詳述します。
事故は午前1時30分頃、駆逐艦がフィリピン船籍の商船、ACXクリスタル(ACX Crystal)によって衝突された時に起こったと、C・F・ウィリアムズ海軍少将(Rear Adm. C.F. Williams)が調査した報告書は言いました。
フィッツジェラルドは吃水線上の右舷をぶつけられ、指揮官の居室にひどく損害を与えました。商船のバルバスバウが右舷のアクセス・トランク(艦の乗員42人分の2号寝台へ通じる場所)を襲いました。衝突時、35人の隊員がそこにいました。
クリスタルはフィッツジェラルドに約13✕17フィート(3.96m☓5.18m)の穴を開けたと、報告書は言いました。2号寝台と右舷アクセス・トランクの間のドアは天井から引き離され、90度の角度にたわみました。「結果として、突進する波から2号寝台を別けるものはなく、非常に素早く2号寝台へ莫大な海水を入らせました」とウィリアムズ少将は報告で書きました。
30~60秒以内に、スペースはほとんど浸水したと、彼は付け加えました。
2号寝台には脱出ルートが3つあり、その2つは艦の左舷上にハシゴと脱出ハッチがありました。3つ目は衝突点に近い右舷側のハシゴで、浸水と残骸のためにほとんど近づけなくなったと、報告書にはありました。
衝突時、一部の隊員は「大きなノイズ」を聞いたと説明したと、ウィリアムズ少将は書きました。その他の者は、艦の異常な動きを感じ、一部の乗員はラックから投げ出されました。
「それでも、その他の2号寝台の隊員は何が起きたのかを理解しませんでした。彼らの一部は眠ったままでした」とウィリアムズは書き、一人の隊員が「他の者が水でラックから叩き落されるのを見ました」と付け加えました。
2号寝台の乗員は「急速に場所が浸水している」ことに気がついたあと、隊員たちは「デッキに浸水!」「外へでろ!」と叫びながら、行動に駆り立てられたと報告書は言いました。
隊員たちは仲間の乗員を起こし、先任の隊員は乗員仲間を確認するためにベッドを調べました。隊員たちは、水がすぐに腰まで深く、それから首まで浸かっても、寝台から出るハシゴを登るために静かに列を作りました。区画を通って浮いていたマットレス、家具、固定式ロッカーを含む残骸が避難を妨げました。
避難の間、氏名を伏せた隊員は1等火器管制官ゲーリー・レオ・レーム・ジュニア(Gary Leo Rehm Jr.)が彼を落ちたロッカーの下から彼を引っ張り出したと報告しました。オハイオ州、エリリア(Elyria)出身、37歳のレームは事故で亡くなった7人の1人でした。
英雄的行為
避難を助けるためにハシゴの下にいた隊員2人は、少なくとも仲間2人の命を救ったと、ウィリアムズ少将は報告書で言いました。「彼らはそのような状況で隊員に期待されることをしました」。
報告書は隊員2人がハシゴのところで、寝台区画の外へ登る前、水位が首の深さになるまで避難を監督したと言いました。ハシゴの上から、隊員は生存者を探し続け、暗い水の中へ向かい、完全に水面下だった隊員2人を救助できました。
区画から引き揚げられた最後の隊員は、事故発生時に浸水した水が彼を床へと倒した時、浴室にいたと報告書は言いました。彼は主要な寝台区画へと移動し、後でロッカーと2号寝台天井の間に釘付けにされたことに気が付きました。天井のパイプを掴み、自分を自由にするように引っ張った後、彼は隊員が避難に使ったハシゴの区域から来ていた、利用できる唯一の照明へとどうにか泳ぎました。
隊員は「赤い顔で充血した目で」水から引き揚げられ、彼は水から引き揚げられる前に「臨終の呼吸」をしたといわれると、ウィリアムズは書きました。
その他の者たちが左舷側のハシゴから2号寝台を出た一方で、左舷側のアクセス・トランクの近くで天辺のラックに寝台があった隊員はかなり右舷側のハシゴから逃げようとしました。彼は最初ラックから出ようとしましたが、偶然に別の隊員を蹴ったために、彼はそれから他の皆が寝台区画を出るまで待とうと決めました。彼はそれからラックから飛び降り、腰の深さの水へ降りました。隊員たちは脱出ルートへ進もうとして、水と戦いました。彼は誰かが「行け、行け、行け。塞がれているぞ」と叫ぶのを聞きましたが、すでに水の中にあり、彼の脱出は脱出ルートを塞いでいる家具の残骸で妨げられていました。
報告書によれば、その隊員は小さなエアポケットで小さく息をすると、出口へ向けて泳ぎ始めたと言いました。隊員はあるところで酸素欠乏のために意識を失い、どうやって2号寝台を脱出したかを憶えていないと言いました。彼はなんとか1号寝台へ進むことができました。そこも浸水していました。そこで、彼は息を呑み、倒れる前にメインデッキへたどり着きました。
その隊員は後で、ヘリコプターで横須賀海軍基地病院へ避難しました。報告書は、彼が右舷の脱出ルートを通って逃げた唯一の者であると言いました。
7人の犠牲者
2号寝台を脱出した隊員たちは、すぐに災害対応活動を支援し始めたと、報告書は言いました。彼らは、ダメージコントロール活動の支援から負傷者の治療、食料と水の手渡しまで、様々な役割を果たしました。ある避難者は、動力が失われた後、船尾の操舵装置を15時間見守りました。
衝突時に2号寝台にいた隊員35人のうち、28人は脱出して、7人は死亡したと報告書は言いました。7人の隊員のベッドは3列と4列に並び、それは右舷の脱出ルートに最も近く、艦に水が殺到した直接の通り道にありました。
艦が横須賀に戻ったあと、ダイバーは最初、装備と熟練したダイバーが不足したために、2号寝台に行けませんでした。隊員の遺体はダイバーが艦の右舷側の穴を通って2号寝台に行けるようになったあとで、翌日の6月18日に回収されました。
ウィリアムズ少将は報告書の中で、2号寝台の浸水は避けられなかったものの、隊員たちの行動は悲劇がよりひどくなることを防いだと言いました。
「2号寝台に配置された隊員たちは、彼らが直面した危険で命の危険がある脅威への対応で賞賛されるべきです」とウィリアムズ少将は書きました。「彼らは艦を救うために、夜の暗闇の中で激しく戦いました。素早く、多くの場合で、英雄的な行動により、フィッツジェラルドの乗員は命を救いました」。
こちらはバカな上官のお陰で犠牲になった隊員の物語です。
ゲーリー・レオ・レーム・ジュニアの救助活動はもっと多く、報告書に書かれているはずです。
報告書の補遺が米海軍のウェブサイトで公表されています(pdfファイルはこちら)。自衛隊の報告書と違い、伏せ字は最小限です。損傷を受けた館内の写真や図面が多数載っていて、事故について詳しく知ることができます。あとで、できるだけ目を通したいと思っています。
損傷した艦内は人が通れないような状態であり、よくこれで脱出できたと感心させられます。
報告書では、当初、午前2時30分とされた事故発生時刻が午前1時30分に直されています。こういう点もしっかりしています。
語られるべき物語は、また沢山あるように思われます。できるだけ多くに目を通したいものです。
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