鬼将軍が書いた奇妙な詩
military.comによれば、1918年11月11日に第一次世界大戦が終わったことを喜んではいませんでした。おそらく、ジョージ・S・パットンという陸軍大佐(George S. Patton)は毛頭その気はありませんでした。
当時32歳のパットンは「平和ーー1918年11月11日」という題の詩を書き、その中で彼は彼とその他の戦士から「人命を奪うことの熱烈な喜び」を奪う大砲の沈黙に民間人が声援を送ることへ軽蔑を示しました。
その日は「退役軍人の日」と改名された1954年までアメリカの祝日「休戦の日」となりました。
パットンの詩は終戦百周年を記念するための議会図書館の展示物「第一次世界大戦の反響・第一次世界大戦のアメリカ人の経験(Echoes of the Great War: American Experiences of World War I)」に含まれます。
誌に添えた説明書きは「休戦がはじまった日、ジョージ・パットンは彼の感情をまとめた詩を書いた」と述べます。「詩はパットンの平和を歓迎する人々の興奮への幻滅を表現し、それで彼は「弱者の残酷な喜び」とみなしたと、説明は続きます。「パットンの詩は、犠牲と目的のような彼が戦争が人を鼓舞すると信じた美徳が平時に失われることを嘆き悲しみました」。
パットンは最高指揮官のウッドロー・ウィルソン大統領(President Woodrow Wilson)と同じく難読症で、展示で紹介された詩の草稿はスペルミスだらけです。
詩はこう始まります。
"I stood in the flag decked cheering crowd
Waere [sic] all but I were gay
And gazing on their extecy [sic]
My heart shrank in dismay."
旗で飾る歓喜の群衆の中で
我のほかは皆陽気
彼らの歓喜を見れば
我が心は失望に萎む
(訳注 「sic」は「原文のまま」という意味です。そこがスペルミスということです。日本語訳は詩を正しいスペルに直したこちらを参考に作成しました)
彼は「苦痛の無視、犠牲の輝かしい行為、それは戦争の訓練の中で続く」と戦いの共有された美徳を経験していない者たちの「小さな生活」を馬鹿にしました。
図書館の説明は「編集者、おそらくはパットンの妻のベアトリス(Beatrice)が、平和な生活を腐った下水道と比較するような特別に強い意見を表明するそれらの行に線を引いて消したと述べます。
言及は続きの行へ。
"Looking forward I could see
Life like a festering sewer
Full of the fecal Pacafists [sic]
Which peace makes us endure"
目の前を見れば
腐った下水道の如き生活が
糞の平和主義者で溢れ
どの平和が我らを耐えさせるのか
人使いが荒い、議論好き、戦術の天才としてパットンの伝説が具体化したのは第一次世界大戦の間でした。
彼はアメリカ遠征軍指揮官ジョン・S・パーシング大将(Gen. John J. Pershing)の側近として戦争をはじめ、それから戦車をアメリカの戦争計画に統合するために遠征軍の軽戦車学校へ実質的に配属されました。
米第1暫定戦車旅団指揮官として、彼はサン・ミシェルの戦い(Saint-Mihiel)でルノーFT戦車を指揮し、ミューズ・アルゴンヌ攻勢(Meuse-Argonne)で機関銃射撃で負傷しました。
彼は殊勲十字勲章を与えられました。
第二次世界大戦中、彼は北アフリカで米第7軍を、ヨーロッパで第3軍を指揮しました。そこで、彼は「古き気質と勇気」というニックネームをもらいました。
パットンは鬼将軍として知られていましたが、変人としても有名でした。古代の戦闘の議論の最中に、「私もそこにいた」というような人でした。軍人としては優秀でしたが、少し狂気を持っていたようにも思われます。
この詩をみても、それが窺えるので、やはり精神的には少し問題があったようにも思えます。
軍事問題にはあまり関係がありませんが、こうしたサイドストーリーにも目を通しておきたいと思い、紹介しました。
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