原爆投下の単純化に歴史家が警告
military.comが
原子爆弾の使用について、アメリカ人が単純化してとらえているという歴史家の懸念を報じました。
1945年の春と夏に、アメリカの政治家、将軍と科学者はニューメキシコ州でのマンハッタン計画(the
Manhattan Project)が作り出した、原子爆弾の恐るべき力の最善の利用方法を思案しました。
彼らは日本との戦争を終わらせるために数万人の民間人を殺すことを検討し、最終的に大統領の権限で攻撃が行われました。
米陸軍航空隊が1945年8月6日と9日にヒロシマとナガサキにそれぞれ原子爆弾を投下してから75年が経っています。両
都市は基本的に完全に破壊され、数十万人が死傷しました。
ナガサキのあと、日本はさらなる抵抗は無益だと悟りました。彼らは降伏しましたが、天皇が地位に留まることだけを条件とし
ました。
戦艦USSミズーリ(USS
Missouri)が東京湾に入り、降伏文書はよきものであり、説明するまでもないといったダグラス・マッカーサー大将(Gen.
Douglas MacArthur)により署名されました。
事実はそう簡単ではありません。
ニュージャージー州、ホーボーケ(Hoboken)、スティーブンズ技術研究所(the Stevens
Institute of
Technology)の科学史家で、原爆史の著者でありブロガーであるアレックス・ウェラーシュタイン(Alex
Wellerstein)は、初めてで、これまでのところは原子兵器の唯一の戦時の使用について教えられることが多い問題を時の流れが鎮め、事実を単純化しているといいま
した。
「こうした理解を単純化したりフレーミング(訳注 ものの見方を特定の方向へ動かすこと)するやり方のの問題は、丸きり歴
史的に見るのではなく、当時、人びとがそれをどう考えたかであるのが第一の問題です」とウェラーシュティンは7月10日の電
話インタビューでいいました。「それは大きな考察、大きな議論として見られることはありませんでした。それは爆弾を使ったこ
とを正当化するために行われた、後世のフレーミングです」。
補給廠であるヒロシマの全住民の中には、街を要塞化する日本兵31,000人と数千人の朝鮮人強制労働者、数百人の米軍戦
時捕虜がいたと、爆弾が設計・製造されたロスアラモス(Los Alamos)のロスアラモス国立研究所(Los
Alamos National Laboratory)の公式史家のアレックス・カー(Alex
Carr)はいいました。
爆弾は、B-29スーパーフォートレスのエノラ・ゲイ号(Enola
Gay)に搭乗した爆撃手、トーマス・フィルビー少佐(Maj. Thomas
Ferebee)が狙った街の中心近くに落ちました。しかしナガサキでは、爆弾は意図した目標を逸れて、真珠湾で使われた魚雷が製造されたとみられる三菱長崎武器工場の上
空で起爆しました。
考察の欠如
これらの損失は戦争の結末を早めたものの、それだけが原因ではなかったと、ウェラーシュティンとカー両氏はいいました。同
様に、別の誤解が爆撃をとりまくよく知られた物語を形づくります。
たとえば、ウェラーシュティンは爆撃を使うと決めることに、多くの議論はなかったといいました。カーを含めた他の歴史家は
同じ見解です。彼は2005年からスタンフォード大学(Stanford
University)教授、歴史家のバートン・バーンシュティン(Barton
Bernstein)の書面を引用しました。
「彼はそれは前提事項の実行というほどの決定ではなかったといいました」とカーは7月16日のロスアラモスからの電話イン
タビューでいいました。「さらに私は、顧みて、それが実情だったと本当に思います」。
戦争の規模と勢いが原爆使用を決定づけたと、カーはいいました。毎日、大勢のアメリカ人が戦闘で死にました。米陸軍航空隊
が東京上空へ送り出した毎回500機の航空機が大勢の航空兵を危険な状況に置きました。東部戦線の最も激しい戦闘の間に、数
万人のソ連兵と民間人が毎日死亡しました。さらに、日本本土侵攻で大勢のアメリカ人が死ぬと予想され、原子爆弾に関係なく実
行するために計画は続きました。
「突然、本質的に魅力的な武器を手に入れたのです。核爆弾の対抗手段はありませんでした。不意に現れた1機の航空機が一瞬
で街を破壊し得るのです」とカーはいいました。「これらは戦闘へ投入され、目的を果たすために造られた兵器で、私はそれが起
きたことだと考えます」。
最終的事実
原爆だけで戦争は終わったのか?。歴史家はこの点を論争すると、ウェラーシュティンはいいました。
「明確ではありません」と彼はいいました。「第二次世界大戦の終わりには多くのことが進行し、原子爆弾はその一部です。ほ
とんどの人はより多くの複雑性があることを認識しません」。
アメリカの歴史家は、ソ連の指導者ヨシフ・スターリン(Josef
Stalin)による土壇場の土地と権力の奪取と位置づけられる出来事
、1945年8月8日のソ連の対日宣戦布告と引き続いたソ連の満州侵攻を軽視します。
実際、同盟国は1943年に太平洋戦争へのソ連の参戦にぐらつき、ソ連は1945年2月にヤルタ会談に合意しました。
「我々は複数の戦線を生み出すために、彼らが我々にD-Dayにつながるフランス侵攻を望んだように、太平洋で彼らにして
ほしいと望みました」とカーはいいました。
日本の指導者はソ連の宣戦布告に呆然としました。彼らはロシア人と不可侵条約を締結していて、彼らを通じて同盟国との受け
入れ可能な和平条約を結ぼうとしていました。
アメリカとそのパートナーは日本にあらゆるものを投げつけ、日本は和平交渉の考えに固執したと、カーはいいました。トルー
マンはスターリンを信用しなかったとはいえ、ソ連を参加させることは同盟国の計画の一部でした。
原子爆弾による損失の上に、日本人はロシア軍に対する短期間の満州での作戦で約84,000人が殺されました。
ソ連の参戦は日本人への致命打でした。その段階で日本は出口を探していたと、カーはいいました。
日本人は事実上、帝国海軍が真珠湾を攻撃した日に戦争に負けたと、彼はいいました。彼らは一度の攻撃でアメリカを決定的に
打倒するのを望んでいましたが、そうするのに失敗しました。引き続いた太平洋での防衛作戦はわずかな勝利と継続的な撤退を生
みました。
大統領権限
核兵器の出現は、もう一つの重要なドクトリンであるシビリアン・コントロール、すなわち核兵器の最終権限が大統領にあるこ
と、をもたらしました。それは自動的に発生しないと、ウェイラーシュティンはいいました。
ヒロシマ爆撃は注意深く発展が辿られたのに、ナガサキは明確な大統領権限なしに、ほとんど自動的に続行した、とウェラー
シュティンはいいました。彼はナガサキ爆撃につながる出来事の経緯を調べるために歴史的な記録を調べました。
彼は、ハリー・トルーマン大統領(President Harry
Truman)は爆撃が行われたときに驚いたらしいといいました。
「トルーマン大統領は最初の爆撃についてあらゆる種類の進捗状況を与えられ、彼はそれに興味を持ち、彼らは任務が翌日に行
われると前日に彼に告げます」とウェラーシュティンはいいました。「誰も2番目の爆弾について彼にいいませんでした」。
彼はナガサキの命令は将軍たちの間で、さらなる目標のために利用可能になる追加の爆弾の情報とともに承認されたといいまし
た。「命令の白紙委任状みたいなものです」と彼はいいました。
「2番目の爆弾を使う決断は軍人がやりました」と彼はいいました。「トルーマンへの相談はまったくありませんでした」。
マンハッタン計画を運営したルイス・グローブス将軍がナガサキのあとでトルーマンに最新情報を提供すると、大統領はさらな
る爆撃を止めました。それによって、彼は核兵器の統制を取り戻したと、ウェラーシュティンはいいました。
「彼は簡素に、君は私の明白な許可なしに原子爆弾を使えない、といいました」と彼は述べました。「利用可能になった途端、
君はそれらを使い続けることはできないのだ」と。
2つの核攻撃の後、日本が天皇裕仁が君主の座に留まるという条件でしか降服しなかったという、もう一つの概念があります。
それが本当であることを示す歴史的記録はないと、カーはいいました。
「私はそれを歴史書で繰り返しみています。私は(ウェラーシュティンのような)仲間に尋ねていますが、書面を私に示せた者
は未だに誰もいません」と、カーはいいました。
敵対国の間の最後の電報は次のようなものでした。日本人は降服の準備があるが、天皇は維持させて欲しいといい、アメリカは
その要請を無視し、降服で天皇の権限は米軍の統治者に移ると答えました。
「でも、私は天皇の立場を(公然でも暗示でも)保証するものを見ていません」と彼はいいました。
安直な教訓化
事後に、マンハッタン計画の科学者たちは「不必要だった」といって、原子爆弾の使用に疑念を口にしたとウェラーシュティン
はいいました。興味深いことに、使用されて、多くの人が戦争を終わらせたと信じた爆弾らしくなく、それは人びとによいアイデ
アだったとかんがえることに反対させました」。
1945年に日本の2つの街を破壊したことは、アメリカの歴史自体のバージョンを作り出し、「そして、それはアメリカ人で
あることの証しです」と彼はいいました。マンハッタン計画は技術的優位性は勝利を収めるという信念ももたらしましたが、それ
に引き続いた紛争で誤りと証明された、と彼はいいました。
「それは原子爆弾への賛否両論への安直な教訓や要約へと濃縮しません」と、ウェラーシュティンはいいました。
「これとは別で、さらに深い疑問があります。大義を信じる戦争で何をすることを許すかという疑問です」とウェラーシュティ
ンはいいました。「あなたが望む勝利を得るためになるなら、どれだけの民間人の損失を許容するか?、なのです」。
このウェブサイトが米軍人向けのニュースサイトであることを考えたら、かなり慎重な分析と思います。もちろん、原爆投下現
場の悲惨さを表現している訳ではなく、観察者としての考察です。人肉が崩れ落ち、それが腐敗し、骨が露出し、あるいはそれら
すら許さない爆心地の破滅的状況は、日本のメディアでも描き切れていないほどです。
この記事ではじめて知った気がするのですが、トールマン大統領が長崎市への原爆投下を知らされず、軍人の判断で投下が行わ
れたことには驚きました。これについてはウェラーシュティンの著書なりがあるはずで、詳しく知りたいと思いました。
また、アメリカでは日本が天皇制の存続を降服の条件としたと信じられていることも驚きです。日本では「無条件降伏」という
言葉どおり、条件は出さなかったと解されており、今でも、米政府の要求は「無条件」で受け入れているかのようです。
むしろ、日本では天皇制の存続はアメリカが日本人が精神的支柱を失い、共産主義が蔓延るのを恐れ、意図的に存続させたと信
じられています。
これらを見ると、敵に対する不信感は歴史観にも影響することが分かります。不都合なことの原因は自身の中ではなく相手に求
めるのです。
現在、日本では敵地攻撃論が叫ばれ、核武装論もますます声高に叫ばれるようになりました。
核武装論を主張する人たちの論理は単純です。国家Aと国家Bが互いに核兵器を持っていたら、二国間には「抑止力」が働き、
戦争を防止できる、と彼らは主張します。
この論理はどちらかが覚悟を決めた瞬間に消失します。現に、キューバ危機の際、カストロはアメリカがキューバへ侵攻するな
ら、上陸部隊を乗せた艦隊を核ミサイルで攻撃するようソ連政府に要請しました。そんなことをしたらアメリカはキューバに核ミ
サイルで報復攻撃をするかも知れませんが、上陸部隊の侵攻を許せば、キューバはアメリカに占領されます。どの道結果は同じと
考えれば、核攻撃の選択肢は現実化します、
ソ連のフルシチョフは熟考した結果、キューバから核ミサイルを撤去する決断をしました。抑止論者は、だから結果として抑止
力が働いたのだと考えるかもしれません。では、キューバ自体が核ミサイルを持っていたらどうなったでしょうか?。カストロは
躊躇なく発射を命じたでしょう。
いや、その場合はキューバが核ミサイルを発射する可能性が高いのだから、そもそもアメリカは上陸作戦を実施しないはずで、
これが抑止力が機能する証拠だというかもしれません。しかし、キューバからアメリカまでは10分間で核ミサイルが到達しま
す。対応不可能の距離なのです。アメリカが何もしないで済ませると考えるでしょうか?。アメリカはソ連がカストロの要請を聞
き入れる可能性を考えずに上陸部隊を送ろうとしたのでしょうか?。
もう一つの考え方があります。キューバに核ミサイルがあり、上陸部隊を送ればそれが核攻撃される恐れがあるのなら、最初か
ら核ミサイルでキューバ全土を攻撃することです。これが、現在、日本が考えている敵地攻撃論です。つまり、敵地攻撃論は自民
党が主張するように「防衛的攻撃」ではなく「戦争」そのものです。
我々はどれを選択するのか?。どれにしても、日本国憲法が掲げる理想とかけ離れているのは間違いがありません。ウェラー
シュティンがいうとおり、どこまでやることを自らに認めるのか。それが問題なのです。
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