力の信奉者ロシア

その思想と戦略

 本書は、第2次世界大戦以降のソ連時代を含むロシアの軍事ドクトリンの変遷についての客観的な論評であり、乾一宇氏の長年に渡る情報分析の集大成です。乾氏は陸上自衛隊でロシアの情報収集を担当し、日本大学教授を経て、退職後は同学で非常勤講師を勤められています。また、当サイトで紹介している「ソ連軍ー思想・機構・実力」の翻訳者でもあります。

 幸いにも、著者から本を提供頂き、発売前に読み終えることができました。ちなみに、発売前に書評を掲載できたのは、今回がはじめてです。

 本書は、ロシア人の「安全」の概念から説き起こし、それを実現するために彼らが軍備を整えつつ、経済などの社会的な条件により、どうやって理想と妥協してきたかを教えてくれます。たとえば、フルシチョフ時代に核兵器への依存が高まったのは、兵役に適する世代の減少のため、通常戦力の欠如を埋めるためでした。これを理解しないと「ソ連は世界を核攻撃するためだけに核兵器を増産した」と勘違いすることになります。

 冷戦時代中に、この本を読めたらどんなによかったかと思いました。当時は、ソ連に関する本は刺激的なものが多く、ソ連による他国の侵略の仮装シナリオのようなものが多かったと記憶します。ソ連の脅威も肥大して伝えられがちでした。80年代にはソ連軍の脅威は最大に増強されましたが、その頃、私が調べたところ、実際には言われているほど強大ではなく、日本に対する直接侵略は考えにくいという結論になりました。ソ連が第一に考えているのは、NATO軍との正面対決で負けないことであり、次が中国との国境問題であり、日本との問題は在日米軍を除けば、そのずっと下だったからです。

 しかし、ソ連の拡張主義には恐怖を感じると共に、なぜソ連はそういう行動をとるのかという解決できない疑問がありました。ある本は「ロシアは過去から不凍港を求めて南下したがっている」と説きました。

 こういう理屈は一定の理解はできるものの、同時にそれはすべてを説明しませんでした。また、世の中には「ソ連は悪い国」としか言わない人たちもいて、こういう考え方は、ソ連人が悪役として登場するハリウッドの戦争・スパイ映画により強調されました。そういう時代だったのです。こういうステロタイプ式の発想に、私は到底ついていけませんでした。同時に、アフガニスタン侵攻のような大胆な軍事行動は、ソ連の拡張主義を裏づける動かしがたい証拠でもありました。何がソ連の真実なのかを突き止めたくなるのは自然なことでした。

 ソ連崩壊後は、冷戦がなくなったのだから、次なる世界秩序の構築に向けて世界は動き出すべきだと私は考えました。しかし、世界はそのようには動かず、ますます実態が見えにくくなり、テロの時代に突入してしましました。北アフリカから中東にかけては民主化運動が起こり、新しい世界秩序が生まれようとしています。冷戦期の単にソ連を悪者視するソ連観では、こうした時代にロシアがどう動くかを考えるのは無理というものです。

 こうしたことに答えるのが本書です。無論、ロシア軍のすべてを一冊の本で論じるのは無理です。本書は軍の活動の基本方針を定義する「軍事ドクトリン」に的を絞り、それらの変遷を読み解き、意図を解説しています。

 軍隊はいつでも軍事ドクトリンを破棄して、まったく違う行動をとることもできますが、紛争に直面した時は、既存の軍事ドクトリンに従って動くものです。平時には軍事ドクトリンに従って兵器の開発や兵の訓練が行われます。軍事ドクトリンを変えるには、それなりの理論的な裏付けが必要で、それなしに大きく変更されることはありません。だから、軍事ドクトリンは外国の軍隊が持つ基本的な考え方をまとめたものとして、真っ先に分析の対象になるわけです。

 従って、本書は自衛官などだけでなく、外交官などの文民、政治家やジャーナリスト、その他の関係者も必読といえます。

 本書を読んでいると、軍事ドクトリンの全文を読んでみたいという気持ちになってきます。実は、乾氏は研究室のホームページに本書に登場する軍事ドクトリンの一部がpdfファイルで掲載されています。是非ともダウンロードしておくことをお勧めします。(リンクはこちら

 本書を読み通すのはかなり大変です。

 どの国のものも軍事ドクトリンは、表現が生硬だったり、専門用語だらけだったりと、読みにくい文章でもあります。こんな複雑な文章を読み解く努力には忍耐も必要です。単なる兵器マニアにとっては難解で退屈な読み物でしょう。こうした文章が軍隊には必要なのかと疑問に持つ人もいるでしょう。でも、軍事ドクトリンの質が低い軍隊は、やはり能力の低い軍隊といえます。大勢の人間が活動するためには、解釈の違いが生じにくい方針が必要なのです。もともと、日本の軍事問題は兵器にばかり傾注し、その他の重要な部分を疎かにしすぎなのです。

 改めてロシア軍の変遷を追いかけてみると、自分の人生と被っている部分は特に感慨深いものがありました。ある軍事ドクトリンが書かれた時代を知っていると、その軍事ドクトリンが書かれるために、こんな経緯があったのかと、知らない部分が埋められていくのを私は実感しました。国際問題も自分の問題と関連づけて記憶されているのだと再認識させられました。

 さて、本書を読む上での注意事項があります。まったく歴史や軍事を学んだことがない人が、最初から本書を読もうとしても挫折するでしょう。軍事用語や歴史の基礎知識、特にソ連軍を含むロシア軍の知識がないと、理解できない部分が多いのです。

 また、すでにソ連崩壊から時間が経ち、現代の世代にとって、ソ連時代は過去のものです。若い方が本書を利用する場合、第三部第二章の「プーチン時代の安全保障」以降を先に読んだ方がよいかも知れません。もっとも、これらの部分を理解するには、最初の方も読んでおく必要もあるのですが、とっかかりを見つけにくいと感じた場合には有効でしょう。

 要点がよくまとめられているのが本書の特徴だと書きましたが、本当に要点中の要点が「むすび」の一番最後に書いてあります。裏技的な読み方ですが、どうしても本書を理解できなかった人は、ここだけ暗記しておけば、ロシア通と友人や上司に評価されるくらいの話はできるかも知れません。もっとも、あなたが「ナントカの一つ憶え」で失敗したとしても、私は関知しません。できるだけ全体を読んで理解するようにしてください。

 難しく見えても、本書は基本的な事柄に限定して解説する方針で書かれています。記述された事柄の背後には、さらなる多くの情報が隠れています。手軽に要点だけ押さえて済む本ではありません。(2011.5.7)

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