通り魔殺人者と米国事件の共通点

2008.6.10



 秋葉原で起きた通り魔事件について、まだ事件の詳細は分からない段階ですが、軍事問題に関係する点を書きます。

 白昼、無差別に大勢を殺傷するという行為はいうまでもなく凶悪です。ところが、警察官が拳銃を向けて威嚇すると、すぐにナイフを捨て、ほとんど抵抗せずに逮捕されました。ニュース映像を見ると、警察官のほか、一般人の男性が一緒に犯人を取り押さえている様子が見えます。しかし、容疑者の体にはほとんど力が入っているようには見えず、とても大勢を殺傷する凶悪な犯罪を犯した者とは思えない姿です。

 そこで思い出したのは、「『戦争』の心理学」に紹介されている、学校で乱射事件を起こしたアメリカの学生との共通点です。彼らに共通するのは、犯行の様態は凶悪なのに、「止めろ」と他者から命じられると、即座に犯行を中止するところです。警察官や教師が拳銃を向けて「銃を捨てろ」と命じると少年は途端に大人しくなり、別の事件では教師から単に「止めろ」と命じられただけで犯行を止めました。普通、こうした事件の犯人は力づくで制止されるまでは犯行を止めようとはしないものです。しかし、十代の大量殺人者の多くは、「止めろ」と命じられると簡単に殺戮を止めるという特徴を持っています。こうした理解しにくい状況について、著者デーヴ・グロスマン氏は少年たちがテレビゲームがいつでも止められる「ゲームオーバー機能」に慣れているためという説を披露し、それを「ゲームオーバー効果」と名付けています。戦闘において、戦士はそれまでに培われた条件反射に従って行動するのが普通です。母親にゲームを止めるように言われてゲームを止めるという行動を繰り返してきた少年は、犯行中にも同じことを繰り返してしまうというわけです。

 通り魔事件の犯人がゲームマニアだった可能性を考えずにはいられません。ロリコン系のアニメに対する興味は知られていたようですが、彼が自室でどんなゲームをやっていたのかが気になります。ロールプレイングゲームの多くには戦闘機能があります。容疑者は犯行中にゲームの中にいるような気分を味わっていたのかもしれません。そして、制止されると、素直に犯行を中止したのです。そういう性質を持つ人にとって、秋葉原という場所は最も選びやすい場所だったのだろうと想像できます。

 お名前は忘れましたが、以前に読んだ精神科医の本に、テレビによって媒介されるヒステリー時代の危険性が載っていました。その著者は人間の心理を「見られる自己」「見る自己」「根元の自己」に分け、この三者のバランスが取れていることが望ましいというのです。現代は「見られる自己」ばかりが強調され、些細なことで暴力に走る危険性を警告していました。読み書き、計算など、現代では基本的とされている知識は「見られる自己」に該当します。学校教育では往々にして、「見られる自己」だけを研鑽することになります。教え上手な家庭教師をつければ、凡才の子供でも学校で秀才になれます。逆に才能があっても、適切な指導を受けられない子供はある程度までしか伸びず、「それがお前の能力だ」と言われると、問題を解決できなくなり、自分の人生がすべて終わったような気分になります。これは「根元の自己」を「見る自己」で認識し、自分で人生を切り開く能力がないためです。私が受けた学校教育も、すでにそういう傾向で満ちていたと記憶しますし、そこから脱却して自分の視点を持つようになるためには、かなりの時間を要しました。そこで瞑想や自律トレーニングなどの精神ケアに関心を持ち、自分の内面を見つめる習慣を増やすようにしました。

 残念ながら、現代の日本は精神的な問題から目を背けている場合が多く、ゲーム、携帯電話、匿名掲示板など、精神的な問題の解決にはまったく役に立たないものが氾濫し、誰もが自由に利用できる状態になっています。問題を自覚しないままに道を踏み外して事件を起こす若者が増える時代が来たと思うべきかもしれません。最近、いわゆる「萌え」系のイラスト付きの軍事本が出版されるようになりました。こういうことも、ソフトな大量殺人者を生む原因になると私は考えています。

Copyright 2006 Akishige Tanaka all rights reserved.