メイヤー軍曹の武勲は誇張されたか?

2011.12.26
追加 2011.12.27 18:35

 遅くなりましたが、先日紹介したダコタ・メイヤー退役軍曹(Sgt. Dakota Meyer)が名誉勲章を受勲した武勲について解説します(過去の記事はこちら)。

海兵隊の記事 

 まず、海兵隊のウェブサイトに掲載されている記録から見ていきます。重要な部分をまとめました。(記事はこちら

 2009年9月8日、アフガニスタン、カンダハル州、ガンジガル峡谷(the Ganjgal Village)の南約15kmで、米軍の部隊同行訓練チーム(ETT)がアフガン軍とアフガン国境警察と、地元の長老と会うために合同作戦を行いました。米兵は4人毎に分けられてアフガン軍・警察と行動しました。ダコタ・L・メイヤー伍長はマイケル・ジョンソン中尉(1st. Lt. Michael Johnson)、アーロン・ケネフィック2等軍曹(Staff Sgt. Aaron Kenefick)、ジェームズ・レイトン3等海曹(Petty Officer Third Class James Layton)と一緒でした。合同作戦部隊は、観測拠点、即応部隊(QRF)、徒歩パトロール、目標集結地(ORP)での安全確保の4つの隊に組織立てられました。メイヤーはORPを担当し、そこにエドウィン・ジョンソン1等軍曹(Gunnery Sgt. Edwin Johnson)が加わりました。

 合同作戦部隊はORPで降車し、ファン・ロドリゲス・チャベス2等軍曹(Staff Sgt. Juan Rodriguez-Chavez)とメイヤー伍長を車両に残して出発しました。彼の位置から、メイヤー伍長はパトロール隊が村へ徒歩で進んでいくのを見ました。彼らが近づいた時、村の灯りが消え、パトロール隊は0530頃、50人以上の武装勢力に、ガンジガル峡谷とその周辺の山の中に1km長の事前に準備され、U字型のキルゾーンに沿った堅固な陣地から待ち伏せ攻撃を受けました。

 合同作戦部隊は身を隠し、反撃して、何度も砲兵と空軍の支援を要請しました。メイヤーはORPの彼の持ち場にいるよう指示されました。犠牲者が出ても、合同作戦部隊は2時間支援が得られず、釘付けになったままでした。ジョンソン中尉は無線機に「航空支援がなければ、我々はここで死にます」と叫びました。メイヤーはキルゾーンに行く許可を求めて、4回却下されました。その後、彼は自ら比較的安全なORPを離れました。メイヤーは運転手にチャベス2等軍曹を連れ、ハンヴィーに乗りました。

 先遣隊とは連絡がつかないまま、メイヤーとチャベスはキルゾーンを走り、米兵とアフガン軍・警察を助けるために、支援火器の援護なしに最も攻撃の激しい地域へ入りました。海兵隊員2人は迫撃砲、RPG、機関銃、小火器の的となりました。2人は合同作戦部隊の負傷者に応急処置を施し、遺体を収容し、負傷者集結地点(CCP)へ運び、4回以上、キルゾーンへ戻り、先遣部隊を探しました。

 再突入の際、チャベスはメイヤーに前方の荒れ地にはまり込むかも知れないと警告しました。メイヤーは動ぜず、「俺たちはそれで死ぬんじゃないかな」と述べました。前進を再開すると、2人は敵の攻撃にさらされ続けました。チャベスはハンヴィーを操り、メイヤーは砲塔の効果的な射撃で敵を打ち破りました。武器が故障して、2人は機能する重機関銃を求めてORPへ車を交換しに戻りました。その途中、さらに負傷者が発見され、回収して運びました。車を交換する過程で、メイヤーはRPGと迫撃砲で腕に裂傷を負いましたが、彼は思い止まりませんでした。

 メイヤーは5回目で最後のアデモラ・ファビヨ海兵大尉(Marine 1st. Lt. Ademola Fabayo)とウィリアム・スウェンソン陸軍大尉(Capt. William Swenson)が随行するキルゾーンへの突撃を行いました。戦闘が始まってから数時間後に、UH-60ヘリコプターによる航空支援が行われました。ヘリコプターに乗った航空救命員がメイヤーに4人の死体らしいものが見えると知らせました。メイヤーはハンヴィーを降り、特定された場所へ走りました。ヘリコプターが上空からメイヤーを見ていましたが、彼は仲間と共に車両の近くに留まっていたよりも、さらに危険な位置にいました。彼はグループから離れると、建物と地形の近くに移動し、大量の敵の銃火を引き付けました。メイヤーは小火器、RPG、迫撃砲、機関銃の攻撃を度外視して、4人の海兵隊員の死体を運び終えるまで、ヘリコプターに向けて走り続けました。溝を出て、危険な地域を横切り、彼はスウェンソン大尉とアフガン警察指揮官の助けを借りて、彼は死体を運びました。

 6時間の戦闘の中、自分の危険を顧みず、メイヤーはキルゾーンへ5回入り、負傷者を救出し、応急処置を施し、最終的に海兵隊員と陸軍兵士13人、さらにアフガン兵23人を助けました。メイヤー自身は、チームを援護し、脱出する間にタリバン兵8人を殺害しました。

マクラッチー紙の記事

 マクラッチー紙の記事は長いため、戦闘に関する部分だけを要約して紹介します(記事はこちら)。戦いに関する記述以外にも興味深い部分はあるので、気になる方は読んで下さい。特に勲章を専門とする歴史家ダグ・スターナー(Doug Sterner)の見解や、ホワイトハウスが海兵隊の説明をさらに脚色したという説明は興味深いものです。

 メイヤーと戦いの参加者の宣誓供述は、彼が最初の2回の突入で13人の米兵を救い、アフガン人24人を集めるために車を離れ、最後に4人の死体を回収したことを示していません。さらに、書面からはメイヤーが命令を無視したかどうかは明らかではありません。さらに供述にはタリバン兵8人を殺した証拠はありません。猛烈な攻撃に立ち向かい、彼は繰り返して待ち伏せの場所にスウェンソン大尉とその他の者と共に戻りました。彼は片腕に砲弾による負傷を負い、戦いの後で戦闘に関連するストレスのために帰国しました。メイヤーの指揮官、ケビン・ウィリアムス中佐(Lt. Col. Kevin Williams)は、「命を危険にさらし…義務を越えた際立った勇気」と称賛しました。

 しかし、この部隊に従軍し、待ち伏せを生き残ったマクラッチー紙の特派員の徹底した評価は、海兵隊が公式に説明するメイヤーの行為が装飾されていることを見出しました。特派員を含めた12人が待ち伏せをされ、その内4人が殺されました(米兵1人が1ヶ月後に死亡しました)。さらに、複数の宣誓供述はヘリコプターの到着が生存者を救ったというマクラッチー紙の報告を支持します。

 メイヤーが8人を殺したという供述はありません。チャベスはメイヤーが1人を殺すのを見たと報告しました。戦いから5日後に軍調査官にメイヤーが提供した1通を含む宣誓のない複数の供述は、最初の2回の突入で彼がアフガン兵24人を助けるためにハンヴィーの砲塔から飛び出したことに言及します。チャベスはメイヤーが砲塔にいる間に、アフガン兵9人が自力でハンヴィーに乗ったと証言しました。チャベスを含む4通の宣誓供述は彼とメイヤーが命令に背いて谷へ入ったという主張を弱めます。そして、書面は戦死した米兵を助けるための最後の突入を指揮したのはスウェンソン大尉で、彼のフォード・レンジャーが溝に落ちた後でメイヤーのハンヴィーを指揮したことを示します。メイヤーはハンヴィーの後部座席にいました。

 ホワイトハウスの授与式の前、9月19日に放送されたCBS「60 Minutes」のインタビューで、彼は以下を語りました。「私とスウェンソン大尉はこの谷で非武装のトラックを運転し続けました。銃弾は至るところで飛び交っていました。両方の窓を開ければ、ヒューと鳴ったでしょう」。しかし、宣誓供述はメイヤーがスウェンソン大尉のフォード・レンジャーに乗らなかったことを示します。

 マクラッチー紙の発見は主に、2つの公式調査で宣誓下で行われた戦いの参加者の供述を元にしており、目撃者の多くの宣誓供述はメイヤーの受勲推薦を支持して自発的に出されました。さらに、マクラッチー紙が入手した陸軍の表彰草案と、スウェンソン大尉の行動の説明(彼の受勲のための説明)に依存しています。

 クナール州の石と岩のように固い泥の砦であるガンジガルの戦いは、アフガン軍とアメリカ人教官の親善任務として始まりました。それは名誉勲章2個の推薦、海軍殊勲賞2個、青銅星章8個、名誉負傷章9個を生んだ7時間の激戦となりました。5人のアメリカ人と、10人のアフガン人が死に、アメリカ人とアフガン人22人が負傷しました。戦いは将校2人を職務怠慢で軍歴を断たせた2件の軍法上の調査も起こさせました。将校たちは待ち伏せされたアメリカ人が空軍と砲兵の支援を繰り返し要請したのを却下し、彼らを救出するために増援を送ることを拒否した点を問われました。将校2人は調査官に、友軍と敵軍の位置が不確かだったと言いました。

 この作戦、「踊るヤギ2(Dancing Goat II)」は、地元支援計画を促進することでタリバン主導の武装勢力を弱体化させる、アメリカが後援する活動の一部でした。パキスタン国境に近いU字型の峡谷の閉じた終端に位置するガンジガルは、腰までの高さがある石垣で区切られる段々畑の広がりを見渡します。岩がごろごろした低地を駆け上がる轍しか車は通れません。アフガン軍は定期的なガンジガルの捜索を行っており、それから地元モスクの改善と引き替えに警察の設立を話し合うために部族長に会います。しかし、作戦はまずい者たちの耳に達しました。

 午前5時30分、アフガン兵約60人とアフガン警察官30人、米海兵隊と陸軍の教官9人、特派員は攻撃者50~60人に三方向から待ち伏せ攻撃を受けました。武装勢力は、家、溝、村を見渡す斜面、アメリカの資金で作った学校から、突撃銃、機関銃、迫撃砲、RPG、無反動砲で集中射撃を放ちました。

 海兵隊員3人、マイケル・E・ジョンソン中尉(1st Lt. Michael E. Johnson)とエドウィン・ジョンソン1等軍曹、アーロン・M・ケネフィック2等軍曹(Staff Sgt. Aaron M. Kenefick)と海軍衛生兵、ジェームズ・R・レイトン3等海曹は村の端でアフガン人数名と共に窮地に陥りました。アメリカ人とアフガン人の兵士たちはあとで、逃げ込んだ溝で死体で発見されました。アフガン人とアメリカ人は段々畑の壁、大きな岩、溝と建物に散り、撃ち返しました。釘付けになり、砲兵と航空支援を却下され、犠牲者が出始めました。

 アメリカ人が窮地に陥った家の前、約150ヤード(約137m)で、ウィリアム、他の米兵5人とアフガン人隊員、特派員は段々畑の壁の背後に飛び込みました。彼らには、あとで陸軍のスウェンソン大尉、ケネス・ウェストブルック2等軍曹(Staff Sgt. Kenneth Westbrook)、と輸血の合併症で1ヶ月後に死亡したスウェンソンの通訳のウェストブルック(Westbrook)が加わりました。メイヤーとチャベスは90分間の待ち伏せの間、村の西方約1マイル(約1.6km)の峡谷の外にいて、ガンジガルに向かった派遣団が停めた車両を見張っていました。

 次に起きたことの公式報告は、メイヤーや他の者たちが示した本物の武勇を曇らせる、多くの相違と矛盾を含みます。

 オバマ大統領はメイヤーとチャベスが反撃して、仲間を助けるために4回峡谷に行く許可を求めて、危険すぎるために4回却下されたと話しました。しかし、宣誓供述はこの説明に疑問を提起します。供述はメイヤーとチャベスは最初の要請に返事がなかったと言います。要請は山頂の監視位置にいる海兵隊員2人を通じてウィリアムス中佐、クリストファー・ガルザ1等軍曹(first sergeant Christopher Garza)とファビヨ大尉にリレーされたと、供述は言います。最終的にガルザ軍曹はその場に留まれという命令を送りました。しかし、再びガルザ軍曹を呼び出すことに失敗した後、山頂にいる海兵隊員の一人、ギレルモ・バラデス2等軍曹(Staff Sgt. Guillermo Valadez)は、チャベスとメイヤーが峡谷に車で行くことに合意しました。海兵隊の教義は2等軍曹2人に主導権を取ることを承認しています。チャベスは「我々はバラデス2等軍曹を無線に出して、我々は何が起きようとも行きます。我々は彼に峡谷に行くことを支援して欲しいと彼に言いました」。バラデスはメイヤー伍長と私の決断に同意してくれましたとチャベスは言いました。バラデス2等軍曹は「私はチャベス2等軍曹に、そこに怪我人がいるのだから行けと言いました」と説明しました。ドイツの軍病院でRPGの爆発による脳震盪から回復しつつあった戦いの8日後の電話インタビューで、バラデスは「ガルザは彼が……メイヤー伍長とチャベス2等軍曹に負傷者を集め始めるために前進するよう命じことを思い出しました」と言いました。

 オバマ大統領が読み、海兵隊のウェブサイトに掲載された説明によれば、チャベスとメイヤーはそれからハンヴィーでガンジガルに向かって出発し、銃火の中に走り入りました。「負傷したアフガン兵に出会う度に、ダコタは飛び出して、毎回、敵の銃火に彼自身をさらしながら負傷兵をハンヴィーに積み込みました」と大統領は言いました。それらの犠牲者を安全な場所へ運んだあと、彼とチャベスは地獄の中に戻り、メイヤーは再び飛び出してはさらに負傷したアフガン人を積み込みました。大統領の演説の後で軍側近が読んだ受勲表彰は、最初の2回の救出で救い出されたアフガン人は2ダースだったとしました。救い出されるアフガニスタン人の数を置いたあと、メダル表彰状は軍の側近によって読めました。しかし、チャベスはメイヤーの受勲推薦のための供述で、どちらの走行でもアフガン人は自分で車に乗り込んだと言いました。彼はメイヤーは砲塔に留まり、M19自動擲弾銃を撃ったと言いました。添付された衛星写真につけたチャベスの目印は、両方の走行が待ち伏せゾーンから外れていることを示します。アフガン軍が隠れようとしているのを見て、チャベスは「私は彼らの位置まで運転し、その間にメイヤーは援護射撃を提供していました。我々は負傷したアフガン兵5人を見て、メイヤー伍長は彼らに車に乗れと合図を送りました」と言いました。アフガン兵3人は空席に座り、2人はトランクを開いてトランクによじ登りました」と言いました。約150ヤード戻ってアフガン人を降ろした後、2人は戻り、最初の位置の直前で止まりました。さらにアフガン兵4人が車両に乗り込みました。公式の説明は2人がどうやって24人のアフガン兵を救出したかを説明しません。海兵隊高官は数字は間違いやすいことを認めました。

 海兵隊の公式の説明は、メイヤーが13人の海兵隊員と陸軍兵士を救ったことを認めます。待ち伏せで生き残ったのは8人の米兵だけで、6人がキルゾーンで窮地に陥り、2人が近くの尾根にいました。レイモンド・カプラン陸軍大尉(Army Capt. Raymond Kaplan)とスティーブン・ノーマン海兵伍長(Marine Cpl. Steven Norman)は村から半マイル南西の尾根にある監視位置でアフガン兵のグループを指揮していました。そこで、彼らは頂上付近にいる武装勢力と激戦を戦っていました。他の米兵5人は支援的役割を担い、さらに遠いところにいました。バラデス2等軍曹とチャド・ミラー海兵2等軍曹(Staff Sgt. Chad Miller)は村の北西4分の3マイルの山頂に、陸軍の狙撃チーム3人が半マイル離れた南西の山頂にいました。彼らの供述は、彼らがメイヤーが4人の戦死者と共に峡谷を去った後で基地へ戻ったことを明らかにします。

 目撃者の供述は、遅れたヘリコプターの到着がウィリアムスのグループが脱出させたことに同意しました。ウィリアムスとノーマンは、チャベスとメイヤーがカイオワ・ヘリコプターが現場に達した後で峡谷に到着したと供述しました。パイロットの一人、エリオット・ニール(Ryan Elliott Neal)は戦いの2週間後に記録された供述で、ヘリコプターが敵の位置を掃射し始めた後、「敵の砲火は(ウィリアムのグループ)が南西に移動し始められるほど長く止まりました」と言いました。ファビヨ大尉は、カイオワ・ヘリコプターが武装勢力の攻撃を制圧すると、「我々は時々、何度か撃ち返しましたが、もはや戦闘地域にはいないかのように歩き始めました」と調査官に言いました。

 大統領が読んだ説明では、チャベスとメイヤーはグループと村の間を車で走り、射線の中に割り込み、アメリカ人が脱出するのを助けました。チャベスとファビヨはこの動きを、メイヤーの受勲推薦の中に含まれた2010年2月の供述の中で述べました。しかし、この供述は、戦いが午後の中頃まで続いたものの、グループはすでに待ち伏せの場所を脱出していたことも明らかにします。

 彼自身のものを含め、どの供述にもメイヤーが8人のタリバン兵を殺したという報告はありません。山頂から見ていたミラー2等軍曹はハンヴィーが湿地を進んでくるのを見て、メイヤーに無線で「敵が9時方向にいる」と言いました。バラデス2等軍曹は人が車に群がっているのを見て、似た警告をお送りました。チャベスはメイヤーがハンヴィーの50口径機銃を撃ち始めたものの、目標に命中するには低すぎて銃身を旋回できなかったと言いました。それから、彼はメイヤーが自分のM4突撃銃を撃っているのを聞きました。「私は敵が一人、銃弾が頭に命中して倒れるのを見ました」。この出来事は米軍のヘリコプターが上空にいて、彼らが見つけられる武装勢力にロケットと機関銃を撃っている間に起こらなければならなかったでしょう。メイヤーのハンヴィーに向かって段々畑を横切り、腰の高さの壁を飛び降りるタリバン兵8人は、ヘリコプターのパイロットが目撃しました。チャベスが衛星写真につけた印によると、あとで経路から回収された死体は3体(ウィリアムスの通訳と武装勢力2人)だけでした。2人がメイヤーが殺したと信じられる武装勢力8人の中にいたのなら、6人は運び去られなければならないでしょう。しかし、それには少なくとも12人の戦闘員が必要となります。死体にそれぞれ2人、恐らくはライフル銃を持ち運び、段々畑と壁を突進し、死体を回収して戻って行ったのです。ヘリコプターに吹き飛ばされることもなく。


 メイヤー自身が話を脚色したのではなく、海兵隊や国防総省、ホワイトハウスがやったのでしょうが、確かに彼の武勲は誇張されているように思われます。メイヤーら戦いの参加者は報告書をあげるだけで、その後のことは関知する権限を持ちません。公式発表と自分たちの報告が食い違っていることに気がつくのは、戦いからかなり経ってからのことであり、大抵の場合、異議を唱えることもできないものです。

 記事からは、激しい攻撃を受けたのはジョンソン中尉らのグループで、他のグループはその後に続いていたことを示します。メイヤーはヘリコプターの支援を受けながら、1.6kmの経路の中を行き来して、彼らを救出したのが事実と考えられます。

 数字は確かに誇張されていると感じます。最初の2回の突入で13人の米兵を救い、アフガン人24人を集めたということですが、ハンヴィーは最大で6人乗りです。緊急事態なので最大限詰め込んで、一度に19人と乗員2人が乗れるかというと、かなり疑問です。走って逃げたアフガン兵も数に含まれているように思われます。メイヤーが一人で4人の死体を回収したとは思えません。死体はその形状のために同じ重さのバーベルよりも重く感じ、担ぎ上げるだけでも重労働です。これは複数の者の共同作業だったと思われます。

 また、将校も現場に入るのに、長時間、メイヤーとチャベスだけが走り回っていたというのも不自然です。将校も指示を出していたはずです。それらは説明から削除されていると考えられます。

 しかし、5回もキルゾーンへ戻って救出活動をおこなった勇気は称賛されるべきです。それが名誉勲章に値するかどうかは難しい議論になります。

 以上は最初に書いたコメントです。さらに追加します。

 ジョナサン・ランディ記者の記事は誠実な調査に基づいており、日本のメディアに見られるような、言われない中傷とは性質が違います。ランディ記者が感じたことは記録を精査した者なら誰でも感じることであり、私自身、公式の見解と自分の見解が大きく異なることが、記事を書こうという動機になることがあります。これがジャーナリズムの本質だと思うのです。

 メイヤー軍曹の名誉勲章がいつになく短期間で承認されたのは、2001年以来、名誉勲章を受けた者が7人と少なく、政治家や軍人、国防総省が受勲者を出すことが望んだためだと記事は書いています。これは「銃後で軍人を讃えることで点数を稼ごうとする人たち」がいることを示しています。また、拙著『ウォームービー・ガイド 映画で知る戦争と平和』で取り上げた『戦火の勇気』のテーマでもあります。

 名誉勲章の受勲が承認されるまでは、申し立てから少なくとも18ヶ月間がかかると言われます。2009年9月に戦闘があり、2010年11月に推薦があったことをコンウェイ大将が発表しており、2011年7月には決定したとの報道がありました。申し立てから決定までの期間はさらに確認する必要があるかも知れませんが、確かに通常よりもかなり短いと言えます。

 状況面では、メイヤーは死んでもおかしくない状況にありました。硫黄島の戦闘で、指揮官が止めたのに戦友を何度も助けに行った海兵隊の実例があります。この場合、最初の数回は救出に成功したのですが、最後にはその海兵隊員は日本兵に殺されました。キルゾーンに飛び込んでくるような者はいないという日本兵の先入観から、最初の数回は照準が向けられなかったために成功したのです。しかし、何度も姿を見せると、今度来たら撃ってやろうと日本兵は考えます。その結果、数度の成功の後に海兵隊員は戦死した訳です。メイヤーの武勲は到底、一人ですべてを行ったとは思えません。多分、他の兵士との共同作業だったはずです。記事にタリバン兵が死体を2人で運んだという仮定を書いていますが、このように死体は1人では簡単に運べないものです。

 メイヤーがキルゾーンへ入ったことは確かですが、その真ん中にいたのは一部で、多くは敵から一定の距離がありました。また、航空支援があって、それに助けられてメイヤーは行動しました。この功績は海軍殊勲十字章でも十分だったかも知れませんが、救出に向かった回数が5回と多かったことが名誉勲章に選ばれた理由かも知れません。そこに政治的な意志が加わったかも知れませんが、勇気がないとできないのは間違いがありません。



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