東日本大震災被災地見学記 その8
旧荒浜小学校
さらに北上して、津波で廃校になった荒浜小学校へ向かいました。ここは現在、震災の資料が展示されています。
途中にも、放棄された住居をあちこちで見ました。一見は人が住んでいるように見えますが、瓦が剥がれていたりして、放棄されたことが分かります。海岸からそれなりの距離がある場所にも、そんな家がありました。
残念ながら、開館時間を勘違いしていたようです。門には鎖がかかっていました。困ったと思っていたら、係の人が来たので開館時刻を聞きました。なんと、車を返却する時刻、午前10時に開くとのこと。
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しかし、この先の海辺に観音像や慰霊碑があるので、まずそちらを見たらとの提案を頂いたので、向かうことにしました。
深沼海水浴場がありました。というよりも、あった場所ですね。浜には防潮堤が建設されていて、その先に誰も泳がなくなった砂浜がありました。
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観音像です。横には犠牲者の氏名を刻んだ慰霊碑もありました。この周辺にも、基礎だけになった住居跡があちこちにありました。
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ここを見学した後、仙台駅近くのレンタカー会社へと向かい、見学の旅を終えました。
旅の終わりに
広島市を訪問して、原爆関連の場所を見学したときもそうですが、自分で現場を歩いて、距離感をつかむことは、状況の把握にとても役立ちます。
広島市では平和記念公園から原爆ドーム、爆心地、本川小学校、袋町小学校を歩きました。関連する場所の距離、方向を実感としてつかむためでした。
本川小学校まできて、原爆ドームを振り返り、ドームから少し右寄りの600メートル上空を見ました。そこで原爆が起爆したのです。
その瞬間、アッと声を出しそうになりました。起爆地点から本川小学校まで、放射線を遮るものがなにもないことを、そこには虚空しかないことを改めて実感したのです。放射線はまっすぐに本川小学校の生徒たちに降り注いだのです。空に原爆の火球が見えた気がしました。本で読んで分かっていたつもりでも、実は分かっていませんでした。これはひどく人道に反する行為です。
これと同じ感覚を、今回の旅でも感じました。やはり、現場に来て、自分の目で見なければダメです。帰還困難区域は予想していたよりも遥かに広大でした。こんな被害をもたらしかねない原発が、日本には50ヶ所以上あるのです。
防災への取り組みも不十分に思えました。国家安全保障の観点からも問題です。
お金の使い方は今回の旅で、不十分、不適切と感じることがありました。政府や自治体は最悪の事態を想定するのではなく、予算としてリーズナブルかどうかで判断しているように思えます。
日本のような国は全土に防災対策をしなければダメです。費用がかかるようでも、それは災害時の被害を防ぎます。それには各省庁を超越する防災の基準を確立する必要があるように思えます。
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