検証報告 ザンペリーニらを銃撃した部隊の報告書を発見
2015.7.29 私が国内上映を推進している映画『Unbroken』には様々な不当な批判が投げかけられてきました。原作に対しては「捏造」との汚名が与えられています。私は記憶違いなどによる事実誤認はあっても、悪意に基づいた捏造はないと主張してきましたが、この度、その証拠を発見しました。 『Unbroken』は1943年(昭和18年)6月23日に漂流中のザンペリーニ氏らが日本軍の爆撃機による銃撃を受けたと書いています。これについて、批判者たちは事実無根、捏造だと主張しました。丸谷元人は『日本軍は本当に「残虐」だったのか』(ハート出版)の中で、下日本海軍爆撃機搭乗員の言葉を引用し、日本軍機が漂流中の人間を銃撃するはずがないと主張しました。 ザンペリーニ氏は『Devil at my heels』の中で、銃撃したのは97式重爆撃機だったとしています。しかし、敵の銃弾が降り注ぐ中、正確に機種判別ができなかったとしてもおかしくはありません。当時、機種判別の教材は不鮮明なモノクロ写真、モノクロ映画、イラスト図、木製の模型などしかなく、十分な教育ができたとも考えにくいのです。(下は当時の教材用映画)
そこで、現場海域に近いタロア島の基地の活動状況を国立公文書館アジア歴史資料センターのウェブサイトで検索し、調査しました。この島には97式重爆撃機ではなく96式陸上攻撃機を装備する第755海軍航空隊が駐屯していました。どちらも双発の爆撃機型の機体で遠目には似た形をしています。 ザンペリーニ氏らが乗ったグリーンホーネット号が墜落したのは5月27日、銃撃を受けたのは『Unbroken』によると27日目。映画用の資料では6月23日とされています。この日付はハワイでのものですから、日付変更線の東側の日付けです。日本は日付変更線の西側にあり、タロア島も同じ日付けです。つまり、墜落したのは5月28日、銃撃は6月24日ということになります。24日の戦闘行動調書にはそれらしい記載はないのですが、当人たちの記憶違い、日付けの数え方の違いなどから一日ずれている可能性はあると考えました。そこで、23日の戦闘行動調書を見ると、次のような記載がありました。 昭和18年6月23日、第755航空隊は「L区哨戒」という任務を行いました。L区とはタロア基地から東に扇状に広がる海域のことで、L-1からL-10までの10区域に分けられていました。この日、96式陸攻5機がL-1からL-5までの区域に対して哨戒活動を行いました。 各区共に指定された方位へ600マイル真っ直ぐに飛行しました。700マイルの場合もありましたが報告書に記載はありません。そこで90度左旋回して、70マイル直進し、さらに左へ90度旋回して、真っ直ぐに基地へ戻るというコースです。これを5区で同時に行うことで広範な扇型の海域で哨戒を行いました。 午前3時41分、96式陸上攻撃機5機が離陸しました。武装は250kg爆弾2発。機銃弾は20mm機銃弾の欄に「7」もしくは「?」の記載があります。これは字ではなく、書類の汚れかも知れません。7.7mm弾の欄は空欄です。 L-1、L-2、L-5では敵を発見できず。L-3では午前5時36分に敵潜水艦を発見。同38分に爆撃を行い、上空を制圧した後、午前10時45分に帰着。L-4では原寅雄が機長の96式陸攻が午前7時55分にある物を発見しました。L-4はタロア島からほぼ真東の方位94度へ向かう扇状の区域です。 「黄緑色をなす潜没●の航跡を認め爆撃 効果確認せんがため高度を下ぐ その時救命筏を組みあわしたる敵不時着搭乗員らしきもの発見 敵搭乗員3名と確認するやただちに銃撃 三名とも射殺す」(●は潜水艦を意味する海軍の符号) 内容としては「黄緑色の潜航中の潜水艦の航跡を確認したので爆撃した。効果を確認するため高度を下げた。救命ボートを組み合わせた敵の不時着した搭乗員らしい者を発見した。敵搭乗員3人と確認したのですぐに銃撃した。3人とも射殺した」という意味です。 多少『Unbroken』の記述とは違うものの、同一事象と言って差し支えない報告です。断定までは至らないものの、これがザンペリーニ氏らを銃撃した件の報告と考えて差し支えないと私は判断しています。 報告では最初の攻撃時に爆撃をしていて、一番最後だったとする原作とは異なります。これは漂流者の記憶違いか、爆撃機搭乗員が虚偽の報告をしたかでしょう。96式陸攻に爆弾倉がなく、爆弾を機体外側に吊り下げていることから96式陸攻に爆弾倉がなく、爆弾を機体外側に吊り下げていることから、爆弾倉が開いたというザンペリーニの目撃談は誤りと考えられます。自分たちの機体に爆弾倉があることから、相手にもあると彼が思い込んだ可能性があります。 「潜没●の航跡」とは、攻撃を受けて故障した潜水艦から出るオイルが洋上に広がったものを指していると推認できます。通常の航跡なら黄緑色のはずはなく、潜望鏡が立てる白っぽい航跡になるはずです。この日、午前5時36分に隣のL-3で潜水艦を発見し、同38分に爆弾を投下していました。この時に損傷した潜水艦がL-4の区域に逃げてきた可能性はあります。ザンペリーニ氏らは爆撃機を見て、信号弾を撃ち、救難マーカーを流し、鏡の反射光で合図を送りました。救難マーカーが着色した海水が爆撃機からは潜水艦のオイルに見えたかもしれません。 爆撃機は一旦通り過ぎてから引き返してから高度を下げたと『Unbroken』は書いています。報告書も高度を下げて潜水艦を確認しようとしています。 「救命筏を組みあわしたる敵不時着搭乗員らしきもの」は、漂流者が2つの救命ボートをロープで繋いでいたことに合致し、着衣から航空機搭乗員と判断したことも分かります。 最初の銃撃で3人は海に飛び込みますが、2回目以降はフィリップスとマクナマラは力尽きてボートの上で死んだふりをして、ザンペリーニは海の中に潜っていました。ここから3人とも射殺と判断されたのでしょう。 離陸後約4時間後のことですから、巡航速度を時速250kmとして、基地から約1,000kmのところで銃撃したと考えると、ザンペリーニ氏らが推定した現在位置と比較的近いことが分かります。 20mm機銃のみ弾を積んでいたのが本当かどうかは分かりません。6月中の他の日の報告書を見ても、武装欄が全部空欄の報告書もかなりあります。もし記述が本当なら、機種は96式陸攻の21型か23型ということになります。それ以前の11型には20mm機銃はありません。96式陸攻には20mm機銃が胴体後部上面1挺、7.7mm機銃が胴体中央部上方に1挺と左右側方に2挺あります。『Unbroken』では向かってくる爆撃機から銃撃を受けたと書いてあるので、機首機銃が使われたように思えますが前方を撃つ機銃はありません。ザンペリーニ氏の記憶とは違い、ボートの周辺を旋回しながら、機体を傾けて発砲した可能性はあります。当時の対潜水艦攻撃の戦術は分かりませんが、目標周辺を旋回しながら撃つ方が、何度も通過しながら撃つよりも効果的に思えます。96式陸攻11型は7.7mm機銃3挺が前上方、後ろ上方、後ろ下方についています。『Devil at my heels』でザンペリーニ氏は弾の口径は22口径(5.6mm)よりは大きいけども25口径(6.5mm)まで大きくはなかったと述べています。20mm機銃が使われた可能性は低そうです。いずれにしても、この件では明確な結論を出すのは危険です。 以上の推定に間違いがなければ、記憶違いや誤認などによる事実との相違はあっても、「捏造」はなかったということができます。これは大きな前進です。批判者たちはあれこれと推測を繰り広げて結論を出していましたが、すべて無意味でした。そういう手法は不正確で信頼性がないのです。一次資料に基づいた検証でなければ、特に歴史に関する調査は間違いに行き着くものです。 この「戦闘行動調書」を見たいなら、アジア歴史資料センターのサイト(http://www.jacar.go.jp)へアクセスし、レファレンスコード「C08051706100」で検索して「昭和18年6月 755空 飛行機隊戦闘行動調書」を表示してください。該当ページは31、32ページです。 |