風立ちぬ

 この作品が零戦の設計者、堀越二郎氏の伝記アニメだと最初に聞いた時、まず疑問を感じました。憲法改正や自衛隊の国防軍化が叫ばれる中、旧軍の主力戦闘機の開発物語を制作することへの疑問です。あるいは、戦争の問題は切り離して、単純に堀越二郎氏へのオマージュかも知れないとも思いました。しかし、それでも、私の信条には合致しないものがあります。

 観賞した結果、この作品は最初に自分が予想したのに近いものだったと分かりました。そして、この作品は、やはり制作すべきではなかったと結論しました。軍事問題を考え続けてきた者として、『ウォームービー・ガイド 映画で知る戦争と平和』を書いた者として、この作品は支持できまないのです。以下に、その理由を書きます。

戦争支持者としての映画の歴史

 悲しいことに、劇映画は歴史的に、常に戦争を支持してきたという経緯があります。ドイツのナチス政権は映画を巧みに利用して、自己の宣伝に活用しました。レニ・リーフェンシュタール監督の『民族の祭典』『美の祭典』は、ナチス賛美としてあまりにも有名です。日米の映画界も例外ではありません。有名なところでは、フランク・キャプラ監督の『Why we fight?』は第2次世界大戦への参戦を促す内容で、そのために枢軸国の脅威が大幅に増幅して説明されていました。日本では山本嘉次郎監督が『ハワイ・マレー沖海戦』を発表しました。戦争がはじまると、俳優たちは兵士を慰問し、いわば政府の看板がわりとなりました。

 大戦終了後、日本やドイツでは軍国主義に協力した映画人は活動の場を失っていったのですが、戦勝国のアメリカでは、米映画人は反省もなく、戦争を支持する作品を作り続けました。80年代くらいからようやく反戦映画が評価される時代がやって来るのですが、未だに劇映画は戦争のメディア戦略に活用される危険を持っており、技術的にも不完全です。大量の視聴者に視覚的、音響的に訴える劇映画は使い方一つで一種の凶器となります。最近まで、北朝鮮の金正日第一書記は、映画を自己宣伝のために活用し、優れた映画を制作するために、韓国の映画監督と彼の妻の女優を拉致すらしました。こうした映画の歴史を顧みれば、戦争を作品中で取り扱う場合には、細心の注意が必要なことは当然です。

 さらに、最近日本で制作される劇映画の中には、反戦映画のつもりで、その逆物になってしまった作品があるのが散見されます。意図せずして、戦争を支持してしまう作品を創る間違いに陥った映画人がいるのです。

日本のアニメに氾濫する暴力描写

 この問題は、特に「子供向け」とみられがちなアニメの世界では見落とされ、意識すらされずにきました。

 残念なことに、日本のアニメーションの中で、「戦争」は繰り返し当たり前のように取り上げられ、子供たちの目の前に展開されてきました。ロボットなどの玩具を売るために、好んで戦争が描かれてきたのです。子供向けということを無視し、暴力を過度に表現したり、戦場がヒロイズムやロマンに満ちた場所であるかのように描いてきたのです。中には、正義の味方が悪の首領をなぶり殺し同然に虐殺する場面を見せつけるアニメもあります。私自身もそうしたアニメを観て育ちました。そして子供の頃は、そうしたことに何の疑問も持っていませんでした。

 しかし、戦争を本格的に研究するようになると、こうしたアニメは人々の心に戦争について誤ったイメージを植え付け、ともすれば暴力に対して無関心にさせる危険をはらんでいると考えるようになりました。虚構の世界であっても、暴力や戦争を扱うときは注意が必要だということが分かってきたのです。実際、アニメが描く戦争と、私が学んだ戦争は乖離しすぎており、それは埋め合わせることができないほどです。

 暴力描写が子供に悪影響を及ぼす可能性があるのは、当サイトでも紹介しているデーヴ・グロスマン氏の『戦争における『人殺し』の心理学』『戦争の心理学 人間における戦闘のメカニズム』でも明らかです。元軍人である彼は、訓練内容を実戦に近づける軍の訓練方式と同じく、リアルな映画やゲームは、子供を大量殺人犯に豹変させる危険があると主張します。

 子供向けアニメは休日に親子が楽しい時間を過ごすためのものです。アニメを観賞し、レストランで美味しいものを食べながら、作品について話し合う時間を持ってもらうためのものでもあります。その中に、親が説明に困るような内容を含めるべきではありません。それについて、私にはある思い出話があります。

 数十年前、私は東京国際映画祭のアニメに関するシンポジウムを取材する機会がありました。そこにはスタジオジブリのスタッフとアメリカのピクサー社のジョン・ラセター氏らのスタッフがパネリストとして参加しました。私はここで発言する気はなかったのですが、司会者が「ラセター氏は『スターウォーズ』がお好きと聞きました。ピクサー社では宇宙戦のアニメを作る予定があると聞いているので、私は楽しみにしています」と言いました。

 私はこの発言が容認できないと感じ、発言の機会を求めました。私は「アニメは5歳の子供も観るものです。日本のアニメには、戦争が登場することが多すぎます。そして、常にアニメが描く戦争は間違って描かれています。ジブリの作品にも、兵器を必要以上に丁寧に描き込む傾向が見られます。なぜ『人』ではなく、『兵器』を熱心に描くのですか。5歳の子供に戦争を見せるなんて、私はとんでもないことと思います」。

 こんなことを言いました。その後、ジブリのスタッフからは特に発言がなかったのですが、年配の女性スタッフが私を真っ直ぐに見つめ、頷きながら、聞いてくれたことを憶えています。

 この直後に、通訳から司会者にラセター氏が言ったのは「宇宙戦争」ではなく「宇宙船」のことだったという訂正の説明がありました。さらに、ラセター氏は私の方を見て、「ピクサー社は戦争アニメを作るつもりはありません」と断言しました。言葉通り、ピクサー社は今でも戦争アニメを制作していません。ラセター氏は、私が言いたいことを理解してくれたのかも知れないと思っています。

小説『風立ちぬ』を挿入したことへの疑問

 作品には堀辰雄の『風立ちぬ』から、病気の妻の物語が挿入されていて、堀越氏の生涯をさらに純粋なものに見せようとする脚色がなされています。堀越氏の生涯を表現する上で、史実を変更すること自体、私は問題だとは思いません。それは最近の伝記映画の傾向ですし、そうすることで作品の意図がより明確になる場合があるからです。しかし、そのために、脚色の意図は評論の対象とならざるを得ません。

 小説は、作者が実際に体験したことを元にして書かれており、本作へ挿入したものとはかなり内容が異なります。この小説をあえて取り込んだ理由は、一つしか考えられません。それは堀越氏の生涯をより純粋なものとして描くためです。堀越氏がカプローニの飛行機に純粋に惚れたように、彼を純粋に愛する女性を登場させ、彼の生涯をより強く表現したいという演出方針だと考えられます。

 それは理解できるものの、あまりにも無邪気に武器開発の現実を無視した表現を、私は評価できないのです。戦場においては、この上なく強い意志も、暴力により簡単に打ち破られるということを、私は戦史の研究で知っています。劇中で二郎が意志を貫けたのは、私に言わせると、戦場から遠いところにいたからです。どんなに動機が純粋でも、現実に製作された兵器がもたらした災厄を無視することはできないと、私は考えるのです。

 これとは離れて、劇作上の手法としても、菜穗子に関する描写が少なすぎて、人物像がはっきりと分からない点で、菜穗子は二郎の脇役にしかなっていない点も問題です。菜穗子が死期を悟り、最後の時間を二郎と過ごすためにサナトリウムを出る経緯の描写は、明らかに不足しています。二郎の手紙を読んで山を下りるため、単に彼女は二郎が恋しくなり、思いつきだけで行動したようにしか感じられません。このため、観客は菜穗子がサナトリウムに帰る段階になって、ようやく彼女の本心に気がつくことになります。二郎の描写に比べると、菜穗子の描写はあまりにも熱意が感じられず、足りていません。私にはこれは男性優位的な考え方のようにも思われるのです。

制作動機を支持できない理由

 『風立ちぬ』には、美しい戦前の日本が描かれているという、評価できる部分はあるものの、結局のところ、飛行機趣味が制作動機であり、そのために、それ以上のものは見出せません。純粋な心を描くつもりだったとしても、これは零戦の設計士が妻の死という苦難を乗り越えて、優秀な戦闘機を作り出した英雄話のようにも見えるのです。

 視点を変えてみてください。開発するのが零戦ではなく、化学兵器の「サリン」だったら、同じ物語を描こうと思いますか。私がこの点にこだわるのは、科学者たちがいとも簡単に金のために良心を売り、武器開発に走ることを知っているからです。劇中に「俺たちは武器商人じゃない」というセリフがありますが、正にこれこそエンジニアの逃げ口上です。自分たちは作っただけで、使ったのは兵士。彼らに命じたのは軍であり政府。めでたく自分たちは責任を回避できるというわけです。この作品は、将来を担う子供たちに、武器開発者になるための言い抜けの業を教えています。

 もう一つ視点を変えてみてください。ドイツのフォン・ブラウン博士は宇宙ロケットを作りたくて、金を出してくれる軍と手を結びました。彼は弾道ミサイルを開発し、それはイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国に多数撃ち込まれました。純粋な思いが、大量破壊兵器に変貌したのです。弾道ミサイルは現在の世界にも脅威を与え続けています。純粋なら武器を開発しても許されるとは言えないのです。

 武器に興味を感じてはいけないのでしょうか?。機能美を尊ぶのはおかしいことでしょうか?。そういう質問に、私は歴史を振り返れとしか答えられません。

 多くの兵器マニアが好む武器の多くは、産業革命以降に造られたものです。軍事史上、産業革命で兵器の致死性は急激に増加し、肉体だけでなく、精神をも破壊するほどの威力を持つようになったことは明らかです。第1次世界大戦で、繰り返される砲撃で精神病になる兵士が続出し、それは「シェルショック」と呼ばれました。刀を抜いて突撃する英雄は戦場から姿を消しました。それでも、人間はまだ、より強力な兵器を造ろうとしています。人間の限界を超えて兵器が発展しているのに、それを見ようとしない姿勢には大きな問題があります。

 なぜか、第2次世界大戦に関する映画には、零戦と戦艦大和が頻繁に登場します。零戦と大和は兵器マニアにとってのスターです。私にはこれが理解できません。テレビ番組のインタビューで、戦艦大和の生存者がこう言うのを聞いたことがあります。「大和のことばかりが言われますが。一人も還らなかった船もあるんですよ」。彼の言葉は胸に染みました。沖縄特攻の天一号作戦で、大和は単独で沖縄へ出撃したのではなく、艦隊を組んでいました。朝霜は撃沈され、乗員326人全員が死亡しましたが、これまでも今後も、朝霜が大和以上に注目を浴びることはないでしょう。メカとして面白くないから、326人の命は軽視されているのです。

 実のところ、軍事を研究するほどに、兵器は戦争の要素としては下の方に位置することが分かってきました。新システムがもたらす効用は、大抵の場合は小さく、それ以外の要素が戦況を大きく還ることの方が大きいものなのです。武器メーカーが示すデータは、実戦ではそれを下回る場合もあり、あてにはなりません。当サイトでも、武器開発に関する馬鹿馬鹿しい話をいくつも紹介していますが、私はそうした事柄には辟易としているのです。

 これが先の、私のシンポジウムでの発言につながります。なぜ、アニメは人ではなく兵器を熱心に描くのでしょう?。戦争で一番大きな要素は人的な部分だと、私は常に考えています。関係者の考え方にこそ、戦争を推し量るヒントが含まれています。しかし、アニメが一番重要な事柄に光をあてた例しはありません。

 宮崎駿氏は、その飛行機趣味から、意図せずして、戦争を肯定する作品を創ってしまったと、私は考えます。他の同種の作品と同じく、この作品は戦争を肯定するために制作されたのではありません。しかし、結果的には戦争という人類の病に深く切り込むことはありませんでした。「生きる」ということがテーマだとしても、私には納得がいきません。当時、日本などよりも数段貧しく、物を持ち合わせない国もあって、日本はそういう国にも攻め込んでいるのです。韓国人は南洋の島々にまで連れて行かれ、日本軍の基地建設のために酷使されました。「生きる」という言葉は、彼らにこそ相応しいのです。

 戦争に関して、劇映画が描いていない事柄、これから描くべき事柄は他に沢山あります。それを描き、後世に戦争の潜在的な危険を知らせることこそ、我々がやるべきことです。(2013.8.5)

Copyright 2006 Akishige TanCopyright 2006 Akishige Tanaka all rights reserved.aka all rights reserved.