フューリー

 この記事には、映画『フューリー』の内容に関する記述が多数含まれています。まだ『フューリー』を観ていない人は、この先を読まないでください。

 本来、このコーナーは、私が推奨するメディアを紹介する目的がありますが、この稿はその逆です。『フューリー』の制作方針に賛成できないから書きました。

凡庸なシナリオ

 この作品の脚本には、恐ろしいほど目新しい要素がありません。

 物語はドン・コリアー(ブラッド・ピット)の戦車が戦闘から戻り、新兵のノーマン・エリソン(ローガン・ラーマン)がに配属されるところから始まります。新兵と古参兵の話は、過去から何度も繰り返された戦争映画のスタイルです。それをあえて採用するなら、過去の作品にない新要素が必要です。

 この作品にはそれがありません。どこかで見たような話が繰り返されるだけです。さらに、鑑賞後は後味の悪さしか残らず、制作意図がつかめずに、困惑するだけです。

 『ジュラシックパーク』の場合、観客は恐竜が過去に使われたアニマトロニクスやモーションピクチャの技法で描かれるような錯覚をさせられます。そう信じ込ませた後で、コンピュータグラフィックの恐竜を登場させることで、観客を驚愕させ、これが従来とはまったく違う作品であることを教えます。この効果は絶大です。優れた映画作品には、必ずそうした新機軸が含まれているものです。

 残念ながら、この作品の脚本には、過去の作品の踏襲しか見られません。創造性の高さは認められません。

時代遅れのダンディズム

 顔面の傷、髭面、喫煙などが男らしさという概念はすでに崩壊しています。女らしさも、いまや同様の時代に、この作品は戦闘に耐えられる本物の男こそ本物と説いています。こういう男らしさに問題が潜んでいることは、当サイトで紹介している『戦争における「人殺し」の心理学』『戦争の心理学 人間における戦闘のメカニズム』で指摘されているとおりです。屈強な男でも戦闘から受けるストレスで心理的な危機に陥ることは珍しくありません。弱みを見せまいとクールに振る舞っても、それは避けられないのです。劇中のドンのように振る舞ったところで、戦闘経験150日間で平均的な兵士は戦意を失うのです(米軍の研究による)。

 まだ、すでに米軍が公に同性愛者が在籍することを認め、性差に関しては新しい見方が広まりつつあります。旧態依然とした性への見方では、日常生活は元より、戦場での心理トラブルを防ぐことはできないことは明白です。屈強な男だから戦場でも大丈夫というわけではなく、女性の中にも戦場に適応できる者がいるのです。この作品はこうした新しい発見を無視し、時代に逆行しています。

 さらに、ドンはノーマンに対してパワーハラスメントと思われる行為に出ます。捕虜の殺害を強要したり、民間人の女を抱くよう命じます。こうした行為はすべて強要に属し、現代の感覚では認められないことです。ひよっこを一人前にするための行為は、結局のところ「大きなお世話」に過ぎません。

 恐らく、リサーチの段階で、兵役兵士から聞いた戦場の現実から導き出した結論だったのでしょうが、どこかで何かを間違えたらしく、逆に非現実的な内容になっています。

国際法違反

 劇中で何度も捕虜を虐殺するシーンがあります。これらはすべてジュネーブ条約やハーグ条約などの戦時国際法に違反します。戦車の中に飾られているドイツ軍の勲章や帽子なども、厳密に言えば略奪に属し、評価はできません。当時、よく行われていたことといえ、映画が何の見解も示さずに、当たり前のように描写することは認められません。アフリカや中東で進行中の紛争でも捕虜の虐殺は起きています。先進国が範を垂れ、世界を先導しなければならないのに、この描写はそれに逆行しています。

 ドンたちが民間人女性の家に上がり込み、調理を強要したり(食材は一部提供しますが)、お湯を提供させ、一緒に食事させたり、ノーマンに女性とセックスをさせたことも、ジュネーブ条約の民間人保護規定に抵触します。ドンの行動で正当だったのは、家の中からこちらを窺う女性を見つけて、室内に入り、敵兵がいないことを確認するところまでで、その先はすべて違法行為です。さらには、同じ戦車の隊員が粗野な行為で女性を怖がらせることにも、ドンは何の注意もしません。これらの行為が不道徳なものとして描かれるのならともかく、正当な行為として描かれていることは、観客に誤ったメッセージを伝えます。

 映画人はすべて良識を重んじるべきで、それに反した作品は創るべきではありません。悪徳を描くのは、それが不道徳だということを表現するときにのみ許されるだけです。

戦闘シーンの不自然さ

 リアルさを追求したはずの本作ですが、至るところに、理解しがたい不自然なシーンがみられます。

 ノーマンの前任者である副操縦士の死因は不可解です。ノーマンは死んだ副操縦士の顔の一部を車内で発見します。かつ、戦車には傷がありませんから、副操縦士は戦闘中に車外に顔を出したところを撃たれたことになります。戦闘中に副操縦士が顔を車外に出す理由が分かりません。当時、車長は戦闘中でもハッチから身を乗り出し、周囲を警戒したものだと伝えられています。だから、他の乗員は車内に閉じこもっていたはずです。

 米軍の兵器、兵士の戦闘能力がドイツ軍に比べて高すぎます。

 シャーマン戦車はタイガー戦車の砲弾を跳ね返し、なかなか撃破されません。これらの戦車が100メートル程度の距離で撃ち合い、タイガー戦車の装甲はシャーマン戦車の砲弾を跳ね返し、その戦車砲はシャーマン戦車を撃破したという史実があります。こうした性能差がまったく反映されていません。

 シャーマン戦車の車外に搭載されているブローニング50口径重機関銃は威力こそ大きいものの、命中精度は低く、その役割は敵を脅かすためだったといわれます。反面、ドイツ軍のMG42機関銃やMG34機関銃は性能が高かったことで知られるのですが、劇中ではドイツ兵がいくら撃っても米兵には当たりません。逆に、当たらないはずの50口径重機関銃でドンが撃つと、簡単にドイツ兵に命中します。この場面には失笑しました。

 戦闘シーンの非現実性はクライマックスの戦いで顕著になります。地雷で壊れた戦車が歩兵大隊相手に長時間戦えるわけがありません。包囲して、複数の方向から対戦車兵器を撃ち込まれると、そこで勝負は終わります。ところが、登場人物たちは延々と300人の歩兵相手に戦い続けるのです。しかも、戦いは昼間に始まり、夜戦で終わります。時間の経緯も描写不足で、突然、夜になるという不自然な形になっています。夜の闇が戦いに与える影響もまったく描かれていません。最後に狙撃兵が接近して、ドンを撃つことで、フューリーの戦いはほぼ終わるのですが、普通なら、ドンが外に出て10分間で狙撃は完了でしょう。ドイツ軍に失礼と思えるほど、劇中のドイツ軍は無能に描かれています。

 戦車の死角もまるで描かれていません。副操縦士の機銃は前方を向いているのですから、砲塔はうしろを向き、主砲と同軸機銃で側面と後方を警戒しなければならないのに、砲塔は主に前方ばかり向いています。砲塔がうしろを向いた戦車は格好が悪いという美的感覚により、フューリーは決して振り向かないのです。砲塔をグルグル回したところで、戦車の周囲にある死角はどうしようもなく、ドイツ軍は容易に接近し、車体に爆薬を仕掛けることすらできるでしょう。

 かつ、ドンは足下で手榴弾2個が爆発して死ぬのに、死に顔は綺麗です。密閉された空間の爆発は威力がさらに増すはずなのにです。

 作品の公式サイトに絶賛コメントを寄せた文化人たちは恥を知るべきでしょう。

 ジェームズ・ボンドが登場するようなジャンル映画なら、ボンドが超人的な活躍をしても許されます。しかし、戦争映画では兵器や戦いの常識を無視した描写は観客を混乱させるだけです。それはSF映画がオカルト現象で結末を向かえないのと同じです。

 結局のところ、本物のタイガー戦車を使って撮影したこと以外、この作品の目新しさはない訳ですが、『プライベート・ライアン』のソ連製T-34戦車を改造して製作したタイガー戦車の方が、ずっと本物らしく見えます。演出次第で、偽物が本物以上に見えるものなのです。

結論

 またアメリカ映画の悪い面が顔を出しました。私には、なぜブラッド・ピットが、この作品を制作・出演したのかが分かりません。彼はボランティア活動に強い関心があり、難民などが使えるシェルターを開発しています。彼の妻のアンジェリーナ・ジョリーは、戦争難民をテーマにした『すべては愛のために』に出演するだけでなく、国連の活動にも参加し、今年、『紛争における性的暴力停止のためのグローバルサミット』でホストを務めました(関連記事はこちら )。『フューリー』はジョリーの活動の対局にある作品で、戦争に対する無知に溢れています。(2014.12.1)

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