詳解「ハート・ロッカー」

2010.4.29

 ここでは映画「ハート・ロッカー」に関して、詳細な解説と論評を試みます。すでに記事に書いたものも含まれていますが、それらは必要性があって掲載したものと理解してください。かなりの長文ですので、この作品に関心のない方は読む必要がありません。

 公開時に、この論評を発表するのを避けたのは、観客に事前知識を与えすぎることで、作品鑑賞の邪魔になることを恐れたためです。この作品は誤解される可能性も十分にあったので、自分の解説を書きたいという衝動もありましたが、お節介になることを恐れ、先延ばしにすることにしました。でも、すでに公開後、かなりの時間が経ち、そろそろ頃合いだと考えました。劇場用パンフレットの解説は、観客が観賞前に読む可能性もあり、観客の興味を殺ぐような記述は避けなければなりません。また、字数にも制限があるので、すべてを書き込むこともできませんでした。そこで、ここでは当時は書けなかったことを書きます。

 「ハート・ロッカー」は、もしいま私が「ウォームービー・ガイド 映画で知る戦争と平和」を書いたなら、間違いなく掲載した作品です。本作には戦争の問題が様々な形で含まれており、それらは拙著のテーマと合致します。一方で、「ハート・ロッカー」は理解するのがむずかしい作品でもあります。それは主に、隠喩的な表現方法を用いたためだと考えられます。ここでは、主にそれらについて解説を試みます。

 

「ハート・ロッカー」の構成

 構成面から見ると、本作のシナリオの特徴は以下の2点に集約されます。

(1) 爆弾処理の方法はトンプソン軍曹が登場するファーストシーンだけが正確

 以後のシーン、ウィリアム・ジェームズ二等軍曹が登場するシーンでは、ほとんどが実際に行われている爆弾処理対の手法とはかけ離れています。

 通常、イラクでは爆弾処理ロボットを使って、IEDを現場で爆破処理するか、砂漠の処理場へ運んで爆破する方法が使われています。たとえば、IEDが設置されていた道路が広ければ、道路の真ん中にIEDをロボットで移動して、IEDにプラスチック爆弾を乗せて起爆し、爆破処理するのです。この方法は当然、付近の住人にとって危険が伴います。破片が飛んできて、人にぶつかるとか、家屋を破壊したりする可能性があるからです。本来なら、この方がイラク国民にとっては安全です。実際、米軍の指導を受けたイラク軍は、むしろ現場で信管だけ抜き取る方法をやりたがりました。しかし、爆破処理ロボットでは、こうした細かい作業はできません。これを行うには人間が爆弾の近くに行く必要がありました。ジェームズがやるのは、作業者には危険ですが、イラク国民にとっては安全な方法です。つまり、トンプソン軍曹は部下にとっては頼りになる上官ですが、イラク人には危険な存在です。ジェームズ軍曹は部下には危険ですが、イラク人には安心な存在ということです。

 ジェームズを登場させたのは、観客にIEDの危険さを体感させないと、その危険さが実感されないからだと考えられます。そして、トンプソンはジェームズの無茶を表現するために登場する必要があったのです。IEDの危険さを劇映画の中で観客に理解させるには、巨大なIEDの爆発を描くよりは、主人公が危険な行為をする手法が効果的なのです。

 自爆ベストのシーンは明らかにファーストシーンと対になる構成になっています。トンプソンの殉職を思い出し、観客はジェームズが死ぬのではないかと考えます。観客はジェームズと共に一種異なる世界に入っていたのですが、ここで現実に引き戻されるのです。この2つのシーンは、単に話の順序として登場するのではなく、意図的に構成されているのです。

(2) 任務の終わりがストーリーの終わりではなく、帰国後の生活と再派遣されるまでが描かれます。

 イラク戦とアフガニスタン戦は、兵士が繰り返し戦地へ派遣されており、それが兵士に大きなストレスを引き起こしています。「ハート・ロッカー」を見た米兵には、PTSDはこの映画ほど頻発していないと言った者がいたのですが、そうは言えないことは、米軍がPTSD対策に躍起なことが証明しています。現在、銃創や身体の切断、火傷のような外傷だけでなく、PTSDのような精神病から、PTSDに似た外傷性脳障害まで、様々な健康障害が起きており、米陸軍の対応は後手に回ってきました。40%以上の兵士は少なくとも2回派遣され、30万人近い兵士が3~4回派遣されています。イラクに派遣された兵士で見ると、2回派遣された陸軍兵士の15%は何らかの精神病になり、1回だけの派遣と比べると2倍増です。PTSD単独では、2回目の派遣は1回目の2.5倍でした。これがアフガン戦になるとさらに増え、3回目の派遣では31%の兵士が精神的な問題を抱え、1回だけの場合の2倍以上の率です(関連記事はこちら)。米陸軍や海軍の軍医総監(軍医の最高位の階級)自身が、こうした精神障害の急増を問題視しており、米軍はこれまで無視しがちだった戦闘ストレスに本腰で対策を始めています。

 こうした現象は、イラク・アフガン戦の1つの特徴となっていて、映画制作者たちは、これを表現しようとしたのです。そのためには、普通ならエンディングを任務完了時に持ってくるところを、あえて再派遣までにしたのです。また、トンプソン軍曹を守れなかったと思い込んでPTSDになりかかっているオーウェン・エルドリッジ技術兵を登場させています。エルドリッジが撃てなかった携帯電話を持つ肉屋の親父が、本当に爆弾を起爆しようとしていたのかは明確に描かれていませんが、エルドリッジはそう思い込んでいます。さらに、自分を心配してくれたケンブリッジ大佐が爆死したことで、さらに衝撃を受けます。実際には、医療部隊の大佐が現場に出ることはありませんが、ここではそういうシーンを設けています。最終的に、皮肉にもジェームズに撃たれたことで、エルドリッジは戦争から解放されます。さらに、沈着冷静な兵士も限界に達しつつあることを表現するために、J・T・サンボーン三等軍曹を登場させています。

 

「ハート・ロッカー」のテーマ

 

 「ハート・ロッカー」は、普通に理解すれば、戦争をする内に、戦争を好きになってしまった男、ジェームズの物語です。これがそのまま作品のテーマであるとするなら、「ハート・ロッカー」は戦争を肯定していることになります。実際、そのような感想を抱いた方もおられるでしょう。

 しかし一方で、作品中にはイラク戦で観察された悪しき問題が描かれています。たとえば、兵舎での飲酒は禁止されています。作品を鑑賞した現役の米兵たちは「あり得ないこと」と評しました(関連記事はこちら)。中には「なぜこんな不正確な内容の映画が高く評価されるのかが理解できない」という兵士もいます。しかし、兵舎どころか、検問所で勤務中に兵士が飲酒した実例があります(後述)。その他にも、作品に登場する問題には、実際に起きたことを連想させるものが含まれており、これらは意図的に選ばれているようにも感じられるのです。単純なヒーロー映画を作りたいのなら、こうした材料はむしろ避けるべきです。そこで、考えられるのは、ヒーロー・ストーリーは批判を避けるための外装で、本当に描きたかったことはイラク戦の問題ではなかったのかということです。

 戦争映画を制作すると、各方面から批判にさらされることが珍しくありません。実はこれは、喜劇王チャールズ・チャップリンも経験したことがあり、映画界で古くから繰り返されてきた現象です。女優のジェーン・フォンダは、ベトナム戦争期に反戦運動をやったために、特に米兵から嫌われていました。映画「グリーンゾーン」は、イラク戦の開戦理由を真っ向からデタラメと決めつけたので、やはり米兵から嫌われました。自分が真剣にやっていることを、他人から批判されるのは、誰だって嫌なものです。SF映画「アバター」までが、対テロ戦に従事する兵士を侮辱しているといわれる始末です。こうした批判を避けるために、「ハート・ロッカー」を、一見したところヒーロー映画に見え、批判するきっかけを与えない作品として誕生させた可能性があります。

 アカデミー賞の授賞式でキャスリン・ビグロー監督が「兵士を誇りに思っている」と述べたのも、授賞式が全米に放送されていることを意識して、批判の材料になることを避けたのではないかと、私は推測するのです。「ハート・ロッカー」を制作するために、制作者たちは「爆弾処理部隊(EOD)記念財団」にコンタクトして、アドバイザーを得たり、同財団とチャリティ上映会を開いて収益を財団に寄付したりしました。おそらく、普通ならば米陸軍の協力は得られない内容なのに、国防総省が爆弾処理の基礎訓練を出演俳優に受けさせることに同意したのは、記念財団の後援があったためでしょう。制作者たちは、こうして外堀を埋めながら映画制作を完遂させたのだと推測できます。

 以上を前提として、以下に作品を具体的に評論していきます。

実際の戦闘と異なる描写

 

 劇中には実際の戦闘とは異なる描写が繰り返し登場します。これらについては、米兵から「自分の経験と違う」という批判が出ています。しかし、わたしはこれには理由があると考えます。以下に、軍事考証と演出の問題を論じます。ここでは、細かい考証の問題点は省きます。たとえば、劇中に登場するテレビゲームは2004年には存在しなかったといったことは、テーマとの関係は薄いと考えます。

単独で行動するハンヴィー

 主人公たちが乗る車両「ハンヴィー」は、移動するときは通常3台以上で車列を組み、各車両が周辺を分担して警戒します。劇中では、ジェームズたちは1台で移動しています。ファーストシーンには、複数のハンヴィーが登場していますから、制作者は車列を組むことを知っており、必要な数のハンヴィーも調達していたわけです。それなのに、主人公たちを単独で異動させた理由は、彼らを孤立した存在として描くことで、観客も孤独な状態に置き、心理的なプレッシャーを体感させるためです。車列を組んでいれば、必然的にチームプレーを描くことになってしまい、こうした感覚は表現できません。

隠れていた分隊

 ジェームズが最初に出動したシーンで、彼らを呼んだ部隊がハンヴィーを降りて、塀の中に隠れています。これは非現実的な光景です。この態勢では周囲を確認できず、部隊は一層危険な状態に置かれることになります。彼らがいる場所に手榴弾が一発放り込まれるだけで、全員が死傷するでしょう。実際には、ハンヴィーからはあまり離れずに、全周を警戒しながら、爆弾処理班を待つはずです。なぜ、こうしたシーンを設けたかというと、やはり歩兵部隊が爆弾処理部隊を頼りにしているところを表現したかったのだと考えるほかありません。どこかで兵士が爆弾処理部隊を頼りにしている映像が欲しかったのです。

発煙手榴弾

 ジェームズは最初の出動で発煙手榴弾を使います。私は初めて作品を鑑賞したとき、なぜジェームズが発煙手榴弾を投げたのか、まったく分かりませんでした。これは武装勢力からジェームズを見えなくすることで、起爆のタイミングが分からないようにするためだとする意見を見たことがあります。この意見には疑問があります。まず、これが普通のことなら、サンボーンが驚くはずはありません。次に、発煙手榴弾は敵の照準線を妨害するために使うため、敵と自分の間に投擲するものなのに、ジェームズは味方との間に投げます。また、犯人がどこにいるか分からない以上、発煙手榴弾は自分を取り囲むように、すべての方向に向けて何個も投げる必要があります。さらに、IEDに使われている榴弾の破壊力を考えれば、米兵が見えなくても適当に爆弾に近づいたと予想できたところで起爆すれば効果が期待できるわけですから、発煙手榴弾を使うのはほとんど無意味です。むしろ、これは映画ならではの演出で、予想外のことをジェームズに行わせることで、観客の足下を崩し、カオスの中におくために設けられているのだと考えた方が合理的です。つまり、煙に巻かれたのは観客だったというわけです。

指揮系統の不在

 爆弾処理隊の上官が、いかなる形ででも登場しないため、彼らが誰の命令で動いているのかが分からないという意見があります。すでに説明したように、これは主人公たちを孤立した状態に置くことで、彼らの孤独を表現するための演出です。「硫黄島からの手紙」でも同じ手法が使われています。この作品では、栗林忠道中将の直接の部下である兵団参謀が1人も登場せず、中将の副官が参謀の役目を代行しています。これは栗林中将を孤立した存在として描くためと考えられます。こうした脚色の手法は最近の劇映画で珍しくありません。

 

イラク侵攻で実際に起きた事件の隠喩

 「ハート・ロッカー」には、実際にイラクで起きた事件の隠喩と思われるシーンがいくつもあります。私の考えでは、これらのシーンは意図的、計画的に各所に挿入されたものです。それは、イラク侵攻の悪しき部分を描くために行われたのです。ここにそれらを列挙します。

重傷の武装勢力を殺害

 このシーンは現役の米兵から疑問の声があがりました。武装勢力も公然と武器を携帯する場合は国際人道法(ジュネーブ条約)上の戦闘員の資格を有し、捕虜として扱わなければなりません。負傷して戦闘不能になっている場合も同様で、この場合は治療しなければなりません。リード大佐が部下に武装勢力を殺すように命じたのは、明らかに国際人道法違反です。昼日中に街中でこうした行為を行えばイラク人に目撃されたり、報道人に撮影される恐れがありますから、実際に行われる可能性は低いといえます。しかし、似たような事件は実際にいくつも起きています。

 2008年5月16日に、第101空挺師団所属のマイケル・C・ビヘンナ中尉は捕虜のアルカイダ系戦士ハシム・イブラヒム・アワドを基地外に連れ出して銃撃し、さらに部下に命じて焼夷手榴弾で死体を焼かせました。ビヘンナ中尉は無罪を主張しましたが、他の兵士が罪を認め、ビヘンナ中尉は2009年2月に有罪判決(禁固25年)を受けました。(関連記事はこちら

 2007年4月27日、草を刈っていたイラク人男性(氏名不詳)が米兵に銃撃され、米兵は武装勢力に見せかけるために彼の服にIEDの起爆コードを入れました。被告の兵士は複数いて、小隊長の命令だったと述べており、組織的な殺害と隠蔽が行われていたことが推測されます。この部隊は5月11日にも別のイラク人男性を撃ち、遺体にAK-47銃を添えて、武装勢力に見せかけました。(関連記事はこちら

 ブッシュ政権は当初、国際法に反して武装勢力に戦闘員としての資格を認めず、捕虜として扱わずに、水責めや大音響で音楽を聞かせるなどの拷問を行いました。特に、アブグレイブ刑務所での虐待は、民間軍事会社が実態のない権限を使って正規兵に予備的な拷問をさせて問題になりました。グアンタナモベイ収容所での事件についても、対外的に説明できないような不明朗な命令により起きています。

 こうした「暗黙の了解」を表現するのに、リード大佐のシーンが用意されたように思われます。大佐が一言も発せず、目配せで兵士に「テロリストを殺せ」と命じるのは、こうした事実の隠喩のようにも見えます。これを表現したければ、アブグレイブ刑務所やグアンタナモベイ収容所の映画を作ればよいという意見も出るでしょうが、いずれの事件も映画化するには未だ秘密の部分が多く、かなりの部分を想像にたよることになります。「グリーンゾーン」は直接的な方法で捕虜の拷問を描いていますが、どちらにしても、こういう映画は兵士に嫌われるのです。爆弾処理班の映画に間接的な形で挿入しても結果は同じと割り切ることもできます。

兵舎での飲酒

 イラクでは兵舎での飲酒が禁止されており、主人公らが泥酔するシーンは実際には命令違反です。劇中で、このことは一切説明されませんが、シナリオには飲酒が認められていないという説明書きがあります。つまり、制作者は飲酒を確信的に描写したのです。このシーンについて、現役米軍兵士からは「あり得ない」という声が出ています。彼らが批判するのは、任務上禁じられていることを劇映画でみせられることに強い抵抗感を生じるからで、何も言わなければ、違反行為をやっているのではないかと思われると危惧するためなのです。しかし、兵士が飲酒して大事件を引き起こしたことが実際にあるのです。

 2006年3月に検問所で飲酒し、トランプで遊んでいた兵士たちが、通りかかった少女に目をつけ、後日、強姦、殺人、放火を行った事例があります。スティーブン・グリーン上等兵は同じ部隊の隊員4人と共謀してイラク人の家に押し入り、少女を強姦し、少女とその家族全員を殺害して、彼らの自宅に放火しました。この事件では、犯人たちが検問所で酒を飲んでいたことが判明しています。しかも、通りかかった少女に目をつけ、非番の時に強姦しようと相談したのです。この家族は米兵の不穏な反応を察知し、少女を近所の家に隠そうと相談をしましたが、それを実行に移す前に襲撃を受けました。この事件の直後、米兵2人が武装勢力につかまり、斬首される事件が起こりました。これを強姦事件への報復と感じた兵士がいました。彼は犯人たちが犯行を相談するのを耳にしていましたが、上官や憲兵隊に報告するのはためらいました。しかし、米兵が虐殺されたのを知り、告白する気になったのです。もし、彼が直ちに事態を報告していれば、犯行は防げた可能性があります。(関連記事はこちら

 このように実例があるのですから、兵士は隠れて酒を飲んでいると考えられます。「あってもおかしくないこと」を劇映画で描くのは正当なことです。

上官への反抗

 米軍は軍隊ですから、もちろん、任務の支持は階級の上から下へ流れます。しかし、劇中でサンボーンがジェームズを殴ったり、反抗したりする点を疑問視する米兵もいます。これは前述の強姦事件では、犯行の主犯がグリーン上等兵で、上官の技術兵や軍曹が彼にそそのかされて共犯となったことを考えれば、こうした階級の倒置は十分にあり得ることだと言えます。

脱走とネビッド教授宅への侵入

 ベッカムを探しに街に出るシーンは、現役兵士には当然、抵抗感があります。無断で基地を出るのは、明らかに無許可離隊であり、軍規に違反しています。それも、武器でイラク人を拳銃で脅迫して基地から出るのに協力させた上に、勝手に個人宅に押し入っています。

 しかし、このシーンは、米兵が行った家宅捜索が問題視されたことを、別の形で表現しているようにも見えます。当初、米兵だけで家宅捜索を行っていたのですが、異国人が武装して家に押し入ることには様々な問題が発生しました。イラク政府が米軍と交渉して、家宅捜索にはイラク政府の同意がいるように取り決めたこと、後にアフガンでも類似するルールが確立されたことは、この問題の大きさを窺わせます(関連記事はこちら) 。ジェームズがCIAではないかと考え、歓迎しようとしたあたりから、ネビッド教授はスンニ派だろうと推測できます。彼はイラク復興に欠かせない、教養あるイラク人です。しかし、ジェームズはここでもうまくやれずに、逃げ返ります。ここにはイラク人とうまくやれないアメリカの姿が象徴されているように見えます。

民間軍事会社

 本作には、イギリスの民間軍事会社が登場します。民間軍事会社がイラクで起こした問題は数限りないほどですが、劇中では、彼らが賞金のために、手配されている元イラク政府の要人狩りをやっている姿が描かれます。これは単的な形で、民間軍事会社の問題を表現するためでしょう。爆弾処理隊を描くために民間軍事会社を使う必要はありません。しかし、制作者は彼らを登場させないとイラク侵略は描けないと考えたのです。

 危険な地域で活動することから、高額の報酬を要求する民間軍事会社ですが、彼らが満足な仕事をしなかったことも少なくありません。金のためにしか動かないために、民間軍事会社の武装警備員(大抵は元特殊部隊隊員)は「傭兵」を意味する「戦争の犬」と呼ばれてきました。彼らが賞金がかけられた手配犯を追いかける姿を通じて、それを描いているのです。レイフ・ファインズが演じるリーダーが簡単に死んでしまうところに、民間軍事会社を否定的に描こうという意図が見えます。

 なお、超遠距離用の狙撃銃「バレット」をサンボーンが使う場面がありますが、爆弾処理部隊の兵士はこうした銃の訓練を受けていません。小銃と要領は同じとは言え、これだけ射程が違うと、すぐに目標に命中させるのは困難です。これも映画ならではの脚色です。

自爆ベスト

 私が知る限り、作品に登場するような自爆ベストは実在しません。自爆する本人にその意志がない場合、ベストを着せても起爆すべき場所へ行ってくれないからです。実際に使われた方法では、2008年にバグダッドの市場に出入りするダウン症候群の女性に自爆ベストを着せ、彼女が市場に出かけたところで起爆した実例があります(関連記事 )。2005年にはダウン症候群の子供が投票日の自爆攻撃に利用されました。いずれも時限式ではなく、遠隔操作で起爆する爆弾だったと考えられ、自爆ベストが何であるかが分からない人が利用されました。残酷にも、彼らはおそらく騙されて利用されたのです。

 すると、なぜこうした設定を設けたかという疑問が生じます。これはイラクに侵攻し、ある程度の成果をあげながらも、目的を果たせないままに撤退するアメリカの隠喩だと考えられます。ジェームズは、自爆ベストの鍵をいくつか壊すことに成功しますが、最終的には失敗して逃げ帰り、命を危険にさらします。イラク人男性が爆死するシーンは、アメリカがイラクを破壊してしまったのではないかという疑問を表現しているように見えます。

ジェームズの性格設定

 大いに議論の的となるのはジェームズの性格づけです。戦争の現実からみれば、ジェームズのような兵士は実在しがたく、これについては米軍兵士から「非現実的」との声があがっています。確かに、ジェームズのような兵士が存在する可能性はないし、また戦場で成功することはないでしょう。

 あれほど強力な軍隊を持ちながら、アメリカ国民一般は自分たちが他国に脅威を与えているとは考えませんし、軍隊の仕事は一般人からは見えないところで行われています。そのため、軍が自分たちの意に反することをするのではないかという潜在的な不安もあります。特に、志願兵だけになった現在、そうした不安は増しています。脚本を書いたマーク・ボールは、志願兵だけの軍隊と徴兵による軍隊の違いを描こうとしたとインタビューで答えているので、こうした意図が脚本に込められたのは間違いがありません。ジェームズが自分の子供に、自分が戦争中毒であることを告白するシーンは、米軍に対するアメリカ人の潜在的な不安を表現しているように思えます。帰還兵からの批判が多かったのは、彼らが無意識にこうした演出意図を感じ取ったためかも知れません。

 

総   括

 残る問題は、イラク戦全体を描く映画を制作するのなら、爆弾処理部隊ではなく、別の舞台設定の方が適しているのではという意見に答えることです。

 もちろん、そういう方法もあります。しかし、本作で用いた手法は、最近の劇映画、特に歴史映画では特に珍しいものではないのです。たまたま物議を醸す内容が含まれていたので、本作は批判にさらされましたが、同じ手法は高い評価を受けている作品にも用いられています。

 戦争はそう考える人が想像する以上に複雑です。たとえば、イラク戦に従事するある部隊の行動を現実的に描こうとすれば、それはもっと重要な別の要素を削らざるを得なくなります。こうした問題があるので、劇映画は時には非現実的な設定を用いたりして、描きたいテーマを網羅するように演出されます。不思議なことに、これだけ現実と異なる表現を使いながらも、「ハート・ロッカー」は非常に現実的に見えます。これについては「観客が現実と混同すると困る」と言った米兵がいたくらいです。私はここに「ハート・ロッカー」が実らせた成果があるのだと考えます。

 さらに言うなら、「ハート・ロッカー」は内容にまとまりがないかも知れません。しかし、イラク侵攻のコンセプトの不合理は、当サイトに掲載しているジェフリー・レコード教授の論文「BOUNDING THE GLOBAL WAR ON TERRORISM」でも明らかです。侵攻後に米政府の意図に反してゲリラ戦になった点も混乱の一つです。私も、イラク侵攻を説明しろと言われると、どう話せばよいのか悩みます。こうした戦争を描くのに、意図的に混乱した内容にして、観客を困惑させる手法を用いるのは、それほど不思議なことではありません。むしろ、このまとまりのなさは欠点ではなく長所だと言うべきです。観客が鑑賞後に感じる焦燥感は、こうした演出によって生み出されているからです。


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